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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

ワーキング・メモリ

ワーキング・メモリー(WM)という概念がある。知能(IQ)と関係するような能力(脳の機能)のことである。このWMというのは、どうも物事の判断能力に関わるらしい。『選択の科学』におけるマシュマロ実験はWMの優劣の話だとされる。

 

トレーシー・アロウェイ氏の著作を読んだ感想である。まだ途中までだが。要はWMは限られた時間内での賢明な判断能力に繋がっている。また、最近耳にするようになってきた話だが発達障害ADHDは、WMの機能が低くなっているのでは無いか、という話がある。療養の過程にWMのトレーニングを入れることで問題の逓減ができるのではないか、と。

 

まぁ、この著書では「WMが全てを解決してくれる」ような語られ方をしているが(苦笑)ただ、発達障害の我々がしてしまう、ちょっと考えれば分かるような問題、を取りこぼすような短慮の多くはWMの働きが弱いために引き起こされる、と考えられる。

 

この著書の説明から考えると、盗癖や盗撮、痴漢など魔が差してしまう問題は、WMの機能が弱いからと説明できる。利益を天秤にかけた上での自制の能力であるから。例えば、スーパーで買い物をしていると時々、お菓子や惣菜をその場で食べたくなってしまったりする。

 

この手の考えは殆どの人にとって直後に頭を振って否定する妄想の類だが、もしもWMの能力が障害されていた場合、つまりそれによって被る不利益が見えず「美味しいだろうな」という利益しか見えなくなっていた場合には、手を出してしまうだろうと予想できる。他にも例えば我々は人の悪口を頭の中に想起する場合が多いが、普通それを口にしない。口に出してしまう人はWMの機能が弱いのかもしれない。悪口が口に出てしまう病気があるが、関係するだろうか?

 

犯罪の多くがWM機能の弱さによって引き起こされているという予想は簡単にできる。そして、放置すれば悪循環する。選択は選択を強化するためである。マシュマロ実験では一個のマシュマロで良いと思った人は次もそうする確率が高くなる。そして次第にそうした思考が癖になる。掛け算を繰り返して習熟するみたいに、その考えを想起しやすくなるのだろう。

 

例えば、働いてお金を稼ぐ能力に劣る人が、暴力によって多額のお金を簡単に入手できたとすると、前者の選択肢はハードルが高く、後者の選択肢はハードルが低いなら、どちらを選ぶだろう。WM機能が低いと目先の「何れがお金になるか」だけが思考の全てを占めており(例えば)逮捕されたり罰を受けるというデメリットに思い至らないのだと思う。

 

それは善人悪人というより短慮さとその手の経験の蓄積から来ていると思うことが多い。悪循環の構造であり、セーフティネットの不十分さが不法行為にそうした人々の思考を誘導するようにできているのだ、とも思える。貧困であるほど社会はその人に善性ばかり期待するようになるが、それを言う人達はだいたい裕福である。実際には貧困であるほど福祉(サポート)が必要になる。「持つ者」と「持たざる者」と言われるが「持っていない」のだから与えなければ持ち得ない。

 

まぁ、持たせることが大変だから他所から持っているやつを連れてきた方が早い、という理屈で、自業自得だから死ね、と言われるわけだが。日本は特に持つ者の実利を優先させるところがあり、それがある種の残酷さや冷酷さに繋がっていると思う。感情やモラルを捨て置いた合理主義になることがある。人を人とも思わないブラック企業的な…。

 

社会主義的/全体主義的なものが垣間見えるが。この社会というのが支配層にとっての社会だったりするわけである。一人一人の個人主義が認められない場合、全体主義社会主義という建前の指揮者の独善という特定個人主義、いわばファシズムになるのだろう。

 

私は貧民が善人だとか、アフリカの貧しい目がキラキラしている子供が無垢で聖者だとは言わない。だいたい逆である。WMの原理から言っても、今日生きるのに必死という人は目の前の確実な利益を取ろうとし、将来の不確かな(大きい)利益を考えられないような日常にいたりするのだろうし。WMを鍛えると賢明になる傾向があるというなら、投資について考えられない環境では賢明さを身に付けるには不利だろう。

 

「衣食足りて礼節を知る」というのはある程度正しいと思う。余裕があるから他者を理解しようと思える、と言えばいいのかもしれないが…。種の絶滅とかを考えられるのも「余裕があるから」である。貧しければ結婚さえできない。貧しい社会では資源の保存なんて考えられずに絶滅させるまで狩りつくしたりするわけだから…。そういうのは言わば、社会全体としてのWM的な機能が弱いわけである。

 

とは言え、善悪が全て貧困で片づけられる話でも無いのだ…。貧困というのはお金だけの話を言うのではなく、居・食・住・知・経験・機会…そう、諸々なのだ。諸々。「頭が良いとはどういうことか」という疑問と同じで今でも、その定義はハッキリしていないだろう。

 

発達障害は「頭は良いが馬鹿だ」と言われたり、地頭が悪い人間は使えない奴だとか。知識だけじゃダメだ、とか知能(IQ)が重要だ、とか。で最近はワーキングメモリーというのがあってコレが重要なのだという。

 

一日30種類の食品を食べなきゃいけないんですよ、という奴を思い出すが…。信じて実践しようとする人もいるが、買い物だけで日が暮れそうであるし金も足りない。まぁ、だからと言って実質網羅できないから無意味なのではない。ただ私が期待するほど単純じゃないというだけだろう。

 

私たちは「あれもこれも」というが、発達障害者向けに言えば、何にしても、自分にできる範囲・無理の無い範囲・常識的な範囲、を考えた方が良い。我々(発達障害者)は時に天元突破してやり過ぎてしまう嫌いがある…。

 

大学の頃に、図書館の本を全て読むのだ、という人がいた。あの棚の本を自分は全て読むのだ、と。その人は「図書館の本をすべて読めば自分は頭が良くなるはずだ」と考えたのだろう。そして「図書館の本をすべて読んだ、とか、だから頭が良いのだ」などと言うのだ。…かつて私もそんな考えが少なからず理解できた頃があったのだが。

 

「世界文学全集をすべて読めば教養を身に付けられるはずだ」くらいなら想像できるだろう。実際、そういうイメージで売っていたりするわけだし。実際は古典を読むより、ラノベを読んだ方が現代の流れを汲めたりして有益だったりするのだが…。例えば、シェイク・スピアを読むと、その当時はメランコリーだとか言って、精神医学なんかは随分民間療法的な考えをしてたりする。単に言葉が難しいだけじゃなくて、現代の知識や常識が当時は無いのだという前提で読むのが難しいのである。

 

単に古くて権威があるし良いものだと言われているから、それを取り入れた私は最強だろう、と言ってるようでは幼稚である。図書館制覇という話もそういう幼稚さである。武道を志す少年にこういう考えをする人が多い。古武術という響きだけで最強であろうと言う。相撲最強説が流れたりするが…。まぁ、人間はスーパーコンピューターではないから将棋の定石を覚えたところで勝てるようになるわけではない、みたいな話である。

 

何でも詰め込めば血肉になるはず、と考える人がいるがそうした考えを正すべきだろう…。確かに丸暗記すれば形だけはトレースできるかもしれないが…。仮に世界文学全集を読んだとして、じゃあ感想や考察を述べられるのだろうか…。述べられないのだとするのならば、何のために世界文学全集を読んだのだろう。それは目的を取り違えているのである。「やった」ことが大切になっていて「教養を付ける」ことは考えられていない。そして、その方法も分からないのである。

 

いや、私はそれが自分で通ってきた道だから、それは違うと指摘するのだが…。発達障害の問題があるとそうなりがちだと思う。要するに「物事の道理を考えず言われたことを鵜呑みにする傾向」がその幼稚さを招くのだ、と。無論、そういう人は発達障害者のみに見られるというわけでは無いが。

 

少し前の話に戻るが、30種類の食品を取らなきゃ!と思う人と、世界文学全集の人とは考え方が全く同じだろう。人の欲望を煽る商売を見ていると私は悲しくなってくるが…。発達障害者的な人々は本当に良い鴨だな、と。

 

WMの働きが悪いとか、目先の利益しか見えない人は本当に騙され搾取される世の中だな…と思って。特にこういう世の中じゃ何でも買ってしまって借金を負ってしまうような人というのは可哀想な人だろう…。まぁ、騙されるような阿保と馬鹿は可哀想だね、という話である。したがって、私は私自身に同情する。賢く無ければ生きてちゃいけない世の中なんですね。例えば私は私に関わりたくないし可哀想でもできればそういう人に関わりたくないのも確かなんですよね…。

 

程度の問題ですけど、暴力性のある人は悲惨ですね。何でも愚かな行為には自業自得という感情が湧いてくるけれど…。自業自得であることと悲惨さとは別問題なので。優しくしろ、とか容赦しろ、という主張に繋げるために「可哀想」「悲惨だ」と言ってるのでは無く。単に嫌な運命だな、と。

 

自分が米兵だったら…無人機で関係ない人を爆殺し「人を殺した」という事実を背負って一生を生きなければならなくなる。私の母親は私に「手をあげたこと」を一生背負って生きなければならない。逆に、親の介護をしていて「親に手をあげてしまったこと」を一生背負って生きなければならない人もいるだろう。

 

「だから助けてあげて!」という行動に繋がる意見じゃなくて、あくまでそういう人々を概観し傍観して人生とは無常なもんだな(溜息)…という感想なんですけどね。私もできれば無かったことにしたい記憶って色々ありますけどね。気にし過ぎなのかもしれないし忘れられる人もいるのかもしれないけど、私は忘れるのが下手で今はもう取り返しのつかないことについて悩んでしまうな。

 

だからやり直せる、とかやり直したいとは思わないんだけど。何というか、過去には戻れない、というのは私の中で確固としてる考えなんだと思う。なんかね、左利きを矯正したい、という人がいたんですよ。成人でね。

 

私が思うに、それは「同性愛を異性愛にしたい」というのと同じ。発達障害を治したいというのもですよ。誰も自分の本質を曲げたいとは思わないし、曲げられるとも思わないと思う。過去に戻れたらと思う想像は気持ち悪い。タイムマシンで未来から来て自分にとって代わる、って考えたらその気持ち悪さが分かるかもしれないけど…。生理的に無理だと思うんですよね。過去の自分と今の自分は違う人間だからだろう。

 

仮に自分を変えていくにしても、これから先の時間の中で変えてく、という考えが健全だと思う。その観点から言うと、左利きも同性愛も発達障害も治るものではないし、変えられるとしても、代償が何れも自分が自分で無くなってしまうだろうと思えるくらい大きすぎると思う。『カッコウの巣の中で』というロボトミー手術で主人公が廃人にされちゃう映画があるんですけどね…。他人にはそういうこと平気で言える人っていますが想像力が無いんだろうな、と思う…。

 

仮に同性愛を矯正するとして「本当の自分じゃない」というストレスを抱えたまま死ぬまで生き続けなければならない、というだけの話になると思うんですよ。左利きだと右手でもできるようになるよ、という人がいますが、それってだからと言って両利きって話では無いので。こればっかり言いますけど母国語と第二外国語の違いです。

 

例えば左利きの人が鋏を右手で使えるようになったとして、使ったことの無い左手でハサミを使えるか、というと使えないんですよ。別にハサミが右利き用だから、ではなく。左手では左手のハサミの使い方を覚えなくてはいけないから。するとどうなるか、というと感覚的に遠い方の右手でハサミを使い続けなければならない。左手でやる場合、殆ど一からになるから。それって元から右利きの人が右手でハサミを使うのと比べてずっと付いて回るハンディキャップになるんですよ。

 

その意味あるのかな、と思う。右利きの人間連れて来た方が上手くやれるでしょ、と。実際には競争原理が働くから勝ち残れる可能性も低くなる。女流棋士みたいなもんですね。構造的に男性のTOPと女性のTOPを比べた時、女性棋士では男性棋士には勝てない。じゃあ、同じ世界でやる必要があるの?と。

 

格闘技を考えればもっと分かり易いだろうか。体重80㎏の選手と体重50㎏の選手が同じ程度に身体を鍛えていて戦ったとして、それはフェアなのか。少なくとも、多くの観客はアンフェアだと思うから、階級制になってるわけであって。

 

簡単に聞こえるなら、日本のどれだけの人が英語が話せるんだろうと考えてみて貰いたいんですが…。私たちは「英語を話せるようになれ」と義務教育を受けてきたわけでしょ。「右利きになれ」っていうのは、今から「中国に行け、中国語も覚えろ、そして一生中国から帰ってくることは許さん」と言われる感じ。そんな無茶な!と思いませんかね…私は耐久力低いからな、乗り気な人間もいるかもしれない。私は無理ですね!

 

要は、体重50㎏の人が80㎏の人に勝つために必要な努力は恐らく不平等だろう、ということかな。そして覆すことはかなり難しいだろう。発達障害とかその手の努力を要求されるんですよね…不可能じゃない(に違いない)という了見で。

 

単純な資本主義の競争原理のあるいは能力主義の欠陥はここですよね。あることを成すために必要な努力がみんな等しいはずだと考えている。資本主義ってプロテスタンティズムが強く影響してるので一神教的なんだと思うんですが。それって人間が正三角形的なものだと思ってるんだろうなーと…。例の世界文学全集的な考えだと思うんですよ。棚の左から右まで読んだ人間は同じだけの教養を備えるはずだ、という。

 

現実主義的な見立てに基づかない結果、という感じ…。義務教育で並べられて生きていると寧ろ観察はしやすいんですけどね…。得手不得手があるとか能力差があるという話は。