LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

だらだらした話

人生はそんなに一秒一秒一生懸命で無ければならないだろうか…。

 

毎日、毎時間、エキサイティングな気持ちで、活き活きしてなければいけないだろうか。

 

明日を生きられない人たちがいるからと言って、今日に感謝して充実した今日を生きなければダメだろうか。

 

一つでも多くの経験をしなければならないのだろうか。

 

みんな幸福になりたいというが、不幸でなければ良いと思う。不幸でない状態はニュートラルで幸福ではない。幸不幸には三段階あって、

 

幸福・普通・不幸

 

の3つである。不幸では無い状態というのは真ん中を指すのであって、即、幸福になるわけでは無い。不幸ではないが幸福でもないという状況を「不幸だ」と思いがちだが、案外、真ん中ら辺なのではなかろうか。

 

こういうものはグラデーションで考えると良いと思うのだ。美術の時間に白から徐々に段階を追って黒くグラデーションを描く授業というのがあったが、白から10段階くらい徐々に色が濃くなっていく余地がある。

 

まぁ、実際はデジタルでは無くアナログな変化なのだが。真ん中というとグレーゾーンだが。…ちなみに彼がTVに出なければタッチのイメージも白いままでいられただろう。

 

「灰色の日常」なんていうが、幸不幸を白黒のグラデと考えると、ある程度、日常というものは灰色なものなのだろう。僕らの個々人の事情を考えるに、きっと、それは、その灰色の濃淡の違いである。

 

そして、どの程度耐えられるのか、というのは人に依る。

 

物的な幸せよりも精神的な余裕の方が幸せには重要だ。幸せとは気持ち・感情だからである。物が気持ちを満たしてくれると考えれば良い。物で気持ちが満たされなければ幸せにはならないだろう。

 

気持ちが満たされるなら物で無くても幸せになれるだろう。だから、私の場合、お金で買いたいと思うのは精神的な余裕である。

 

逆説的に言うと、私たちは物を通じて精神的にプラスの影響を買いたいと考えていて、それが「余計な物」を買わせるのである。ショッピングが楽しいのは幸せ(満足)を買おうとするからだろう。その期待こそが真に買っているものかもしれない。

 

「どれだけあっても幸せになれない」と表現することがある。お金がどれだけあっても贅の限りを尽くしても幸福になれない、と。ショッピングの例で考えると、その幸せな気持ちは買い物に関わる時の一時的な気持ちだから物自体を所有することで齎される価値とはまた別である。

 

消化されない食事を摂っているようなものなので、価値を喪失した物だけが取り残されていくのだと想像する。

 

後に残る物であっても消費されるものとして買うのであれば、どれだけ持っているか、ということに意味は無いだろう。

 

ただ、その瞬間だけは何か満足感を得られる、ということである。

 

幸福は満足を感じる波のようなものだと思う。精神的な苦痛を不幸だと表現するが、質的には幸福と不幸は異なっていると思う。

 

幸福になりたいのなら満足できるような規則正しい生活を送れれば良いのだと思う。物が少なくても精神的に満たされるなら、幸福を感じるだろうから。睡眠、食事、風呂、排泄等、動物は規則的に精神的な満足を得るようになっているのだから、精神的に辛くなるような状況で無い限りは周期的に幸せを感じるイベントは訪れるのだから…。

 

寧ろ「幸せになりたい」と願うのは「幸せが欲しい」のではなく、何らかの不幸を避けたい、という願いなんじゃ無いだろうか。勿論、人によっては日々がただ退屈で空虚なのかもしれないが…。

 

ちなみに私はミニマリストでは無いので最低限しか物の無い生活こそ至上とは主張していない。ただ必要以上に物があってもそれで幸せになれるわけじゃないだろう、と言ってるだけで。

 

まだ使えるけど、出来れば冷蔵庫も洗濯機も最新のものに買い替えたい(´・ω・`)あと60年くらい同じ冷蔵庫を使い続けるのだろうか…それは違うんじゃないか?と自問自答する。

 

分かり易く言うと、家は雨風が凌げれば洞窟でも良い。冷蔵庫は氷嚢があれば良い。洗濯機は洗濯板があれば良い、ということでは無いのだ。寧ろ、そういう部分はお金で幸せになれると思っている。

 

買って幸せになれるとしたら、それで生活水準が上がって、日々の生活の不満が解消されるとか満足感が向上するからだろう。そういう買い物を私は肯定する。但し、必ずしもそうじゃない無駄に見える買い物もあって、そういうのは何を買ってるのだろうか…という話である。

 

まぁ、買い物の話は置いておき…。

 

私が一番、日本人が不幸になる原因だと思うのは「疲れ」である。私自身が「休むこと」が下手で「疲れ易い」。それが私を不幸にしている。冒頭に連ねた言葉は全て「行動しろ」という類のものであり、自己啓発本の多くは「行動しろ」「動け」と述べるものが多い。

 

私は寧ろ「休め」とか「気を楽にしろ」と思う。「人生の成功」を謳う啓発本の多くは、私が求める人生の成功とは違うものを求めているような気がする。人から顧みられるだけの能力があることをいうらしい。そしてしがないサラリーマンであったりする能力の無い私がそれを読むわけだが。

 

そうじゃなくて、サラリーマンがサラリーマンのまま「人生の成功」を求めるにはどうすればいいのか、が要するに私の思うところである。「人と違うことをしろ」という人は多い。すなわち、企業家的な富が集約する場所を嗅ぎつけて、そこへ行け、というわけである。

 

ただこの類は多くの人たちにとって現実的では無いし、だからこそ、成功するのである。100人いたら100人に当たる宝くじの配当金は幾らだろう。99人が元金を失うから1人が100人分貰える訳である。

 

そういう成功は要はアメリカンドリーム的なものであって、そういう話が聞きたいのでは無いのだ。それよりは努力して大成せずとも平凡に生きる意味や価値を論じた本の方が私の気に合う読み物だろう。

 

まぁ、私自身のそういう価値観から言って、自己実現のために四六時中何かしているようなのって疲れると思うんですよね…。別に自己投資しちゃいけない、とは言わないけれど、身体や心を休めるということが軽視されている気がしてならない。

 

趣味で疲れ果てるより、十分心身を休めながら生きられた方が人生幸せに生きられると思うんですよ。「そんな人生に何の意味があるのか」と言う人がいますが…。

 

逆に「どんな人生を生きたところで、人生で何かをやり遂げたところで何の意味があるのだろう」と考えるんですよ。人にそんなことは言わないですが。嫌がらせになりそうなので。

 

勿論、だから「好き放題に生きて良い」ということじゃなく。逆に楽しみのために無理な生活を送ることが日常生活に現を抜かすほどのことなのかな…と思う。

 

それよりは日常生活を恙無(つつがな)く終えた方が結果的に精神的にゆとりが持てるんじゃないかな、と。これはマシュマロ実験的な話かもしれない。

 

日々の趣味・楽しみ、というのは目の前の一個のマシュマロを得ることであり、規則正しい生活を送ることは先々の2個のマシュマロを得ることである…のかもしれない。

 

ちなみに私は一個のマシュマロを取りがちな目先しか見えない類の人です。新しいゲームが出ると徹夜してしまう側の…(´・ω・`)

 

自分を戒めたいんですよね。そうじゃないんじゃなかろうか…と。割と有言実行できない人が自己啓発書とか書く訳ですよ。大概、出来ないから悩むわけで。一気にここまでのブログが胡散臭くなったわけですが…。

 

私は休憩が上手く取れないから、それって実はとっても大切なことなんじゃなかろうか…と思ってる、というわけですね。整理整頓や掃除もそうですが。発達障害の人ってそういうことに問題を抱えている場合が多かったりするので。

 

「問題があるから問題意識を抱える」という構図ですね。私はそんな感じで悩んで生きていて、その辺の自問自答の意識の一端をブログに書いて言葉にしてみるわけです。定まった情報発信というより迷走発信です。

 

その人の言動が離れてみえることはよくありますが、意図的に詐称してるんじゃなくて、そういう理由故の言動不一致だったりするのかもしれない。私はやはり人の言動が一致してるものだと思って色んな文章を読むんですが、現実を考えると、そうとは限らないんじゃないだろうか、と思ったりするわけです。