LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

他人と仲良くしなくてもいいんじゃないかな

発達障害界隈は「他人と仲良くできなければならない」みたいな思い込みが激しいのではないか、という印象を受けた。

 

だからというのではないが、他人と仲良くならなくても良く無い?という風に思うのである。無理して仲良くする必要なんて無い。

 

仲良くしない、ということは「否定」ではなく、ゼロ地点を指す。だから攻撃的になれ、とか否定しろ、非難しろ、ということでは無くて単なるゼロで良いということ。

 

別に無関心になれ、ということではなく、興味があれば関心を持てば良いし、単純に「仲良くならねば…!」と身構える必要は無いのではないか、程度の話である。

 

仲良くなれないなら、それは仲良くなれなかっただけのことであり…(´・ω・`)

 

カサンドラ症候群とか相手に陥らせないために私は健常者のフリをして好感度あがってるフリをしなきゃいけないわけ?そうしないと仲良くなれてる実感が得られないから、喜んでいるフリとか、反応してるフリをしなくてはならないわけ?

 

そういう感情労働を常日頃から強いられるとか無理だな、と思っている。仲良くなりたいなら健常者に歩み寄れというが、無理っす(/ω\)喩えて言うなら「自転車を向かい風に向かって漕ぎ続ける」ような苦しさが、健常者に対するコミュニケーションの中にはあると感じており、仲良くなる前に苦しくてダウンする方が早いんですよ。

 

したくないことに対してストレートな発達障害者としては、それ自体避けたいという忌避感情がコミュニケーションを重ねるほどに重くなっていくわけであり、最終的に「生理的に無理」という状況になり兼ねないな…と。

 

まぁ、だから彼らはよく携帯のアドレス帳を真っ新にして新天地に逃避行したりするんじゃないかと思うのだけれど(/ω\)地域に無難に住んで過ごしているだけで他人の好感度が上がってくのが辛いんですよ(´・ω・`)顔見知り増えるし。

 

他人の私とコミュニケーションを取りたいと思っている風な期待が辛い。まぁだから、期待されても、その期待に応えなきゃ良いんだと思う。私たちは他人と仲良くしようと思い過ぎて気を揉んでるけど、それ自体が悪い結果をもたらしているような気がする。

 

だから、「上手い反応をしなきゃ!」と思うのではなく、残念ながら某は期待されても応じられないのでござる…という前提で関わった方が良いかなーと思いつつ。

 

結局、誰かと仲良くなりたい、とか思うこと自体が精神的な負担や空気読めない行動に繋がりがちだと思うわけで。

 

それは「仲良くなってはイケない」ということではなくて、他人に対する構え方としては間違ってんじゃないかな、と思うわけである。

 

健常者はこの人と仲良くなりたいな、コミュニケーション取りたいなと信号送るわけだけれど、それは前提として相手に同じような人間であることを期待しているわけで。私は同じような人間では無いので、その信号に応じられないにも関わらず、頑張って応じようとする。ここが間違いだと思う。

 

例えて言うなら、外国人と鉢合わせて、エクスキューズミーと言われて、イエスだのドントスピークイングリッシュだのと答えてしまうと「英語喋れるじゃん?」と間違った期待を抱かせてしまう感じである(´・ω・`)

 

私の対応として正しいのは、素のままで「はい。どうしました?」と応じることだと。そうすりゃ言葉通じないからその状況でどうすればいいか、と相手は考えざるを得ない。そこで言葉主体のコミュニケーションからボディランゲージや絵を介したコミュニケーションに切り替えてくれるかもしれない。

 

けれど、なまじ私が健常者のフリ、英語を話せるフリをしてしまうと、相手は自分に合わせてくれるものと思い込み、コミュニケーション手段を切り替えてはくれないだろう。

 

そういう風な失敗をしているような気がするわけである。「この人日本語喋れない人だわ」みたいな気づきを早々に相手に与えた方が良いだろう。「あぁ、この人話の通じない人だわ」でも何でも良いが、私がそういう障害があって意思疎通なりなんなりが微妙なのだ、ということをさっさと伝えておいた方が良いのである。

 

その結果、9割9分くらい私から去っていくのだとしても、残った人は、まぁそれでいいということなのだから。そうではなくて健常者のフリをして「ニホンゴハナセマスヨ。ダカラナカヨクシテネ」なんてことをやっていると、あぁ似非関西弁スピーカーだわこいつ、と見切られた時点でやはり去る人は去っていくのであり、その方が頑張った分だけダメージも大きいわけである。

 

そんな風に、出来る限り完璧に相手を騙し切る技術をコミュニケーション能力として鍛えたいという人がいて、そうすれば仲良くなれるんだ、という人がいるが私は懐疑的である。

 

 私が演技に疲れ果てるか、相手が私に違和感を見出して見切りをつけるか、なんてレースをしている気になる(´・ω・`)

 

なら疲れるだけだしなぁ…みたいな。

 

療育にしても、そういう英会話能力を高めるだけで、付け焼刃に過ぎず、だからそれじゃ友達も彼女もできないという現実やネイティブの中では差別されてしまうような状況から抜け出せないような現実を脱することはできないのかもしれない。

 

私は療育は受けていないのでその辺は未知数だが。

 

だから、療育を受けたから、SSTを熟したから、ライフハックしたから、普通の人の幸せが手に入るはずだ、と期待するなら、そんなわけは無い。その手のこの私では無い違う私になれるはず、というような目的意識を持って取り組むなら、それは挫折せざるを得ないように思える。

 

友達も彼女も結婚も普通の人にとって当たり前のあれやこれやは望むべくもない、という現実は何をしても手に入らないし変わらない。

 

その比較が間違っているのであり、全ては私なりの関係性にならざるを得ない。「普通の人用」の定規で、私の人生のあれこれを測ること自体がナンセンスである。

 

だから「不幸にしかならない」と言っているわけではない。この否定はマイナスではなくゼロだ。発達障害者には発達障害者の定規があるはずであり、それは一般的に明らかでは無い。結局は自分用の適当な定規を作らざるを得ないように思える。

 

ただ、それは誰しもがそうであろう。単に汎用性のある定規を自分はテンプレートとしてさえ使えない、みたいな話であって。誰しも自分の判断基準を自分で構築していくものなんじゃ無かろうか。

 

まぁ、健常者の中にはレールに乗ってるだけで特別難しいことを考えずとも適当に適当なその辺の定規で生きていける人もいるのかもしれないが…(´・ω・`)

 

 私は私という生物であるし、あの人はあの人という生物である。

 

そもそも私が人間である必要があるんだろうか( 一一)私が犬や猫として生まれて来ても、それはそれであるわけで、発達障害を持って生まれて来ても、それはそれに過ぎない。特に人間として生まれて来なければ間違いであるなどと言うルールはどこにも無いわけである。

 

けれど私たちは「まともな人間として生まれてくる」ことは当たり前だと考えている。正直、一匹の昆虫とかミジンコ辺りに生まれる可能性もあったのではなかろうか…( 一一)

 

少しばかり「まともな人間」から外れていたとして、それが何だというのだろう…。人間として生まれてくるルールとかそもそも無いのであってみんな偶然に過ぎないだろうに。私の頭がおかしいのもそういう珍しくも無い偶然である。

 

それこそ「まともな人間として誰しも五体満足で生まれてくる」という神話を当たり前に信仰し過ぎだろう…( 一一)

 

どこの誰が私の生まれにおける安定した品質なんてものを保証してくれたというのか…( 一一)自分の運命に期待し過ぎだろう。

 

空想してみるが、私が死んだら胡蝶の夢を再現するようなことも有り得ると思い、戦々恐々とする。無限に記憶リセットして生死を繰り返すんじゃないだろうか、と。だから生きるも死ぬも怖いのだと理解するが…。

 

ならば完璧に生まれないことなんて、何のことは無い。当たり前の現実に過ぎない。何に生まれようがそういうことはそういうものなのだろう。

 

まぁ、とは言え、無限に繰り返すとかやめて欲しいもんだけど。考えるだけでしんどいわ。