LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

多様性と個人差

個性には能力差があり、所謂、低能、馬鹿、凡俗、阿呆、変態…等々の比較されて劣っているとされる個性もある。

 

それぞれに何か光る部分もあると言うのは慰めか世辞だろう。もしもあったらいいね、である。

 

多様性の話になると、そうした一芸を持たないと思う自信の欠落した人間が無制限の自由を振りかざし自分の弱さを正当化した挙句、価値があるも無いも無い、等しく全て素晴らしいと言え!ということにする。

 

みんな違ってみんないい

 

だが、いい→良いにされてしまうわけである。この「いい」は違うけれど、まあ止しとしよう、という「いい」であると受け止めた方がいいのではないか。「もういい」という時の「いい」である。

 

そんなつまらないことは許せ、ということだ。容赦しろ、と。人種においては全て保護し人道的に扱うという風に前提を置き、人によって最低な人間もいるが何とか保護しなさい、という風に解する。

 

まぁ、私はだから人権を守りつつ外へは出さないために刑務所があるという風に思うし、死刑には反対する。

 

犯罪者の全てがそうだとは言わないが、人によっては劣等なのは仕方ないことだと考えている。多様性というのは優劣を含む。個性には優劣がある。だから素晴らしく無い多様性というものもあるだろう。その中で他人の人権を脅かすものは調整されるだろう。どの人にも人権があるからである。

 

最低限の人権の保障は、文化的で云々というものであるとして、それ以上の文化的な栄華的なアレが富において行使し得る自由だろう。

 

人間は自分自身を自然公園において保護するようなことをしなければならないように思う。再帰的であるというか、両義的であるというか、そういう存在だろう。でなければ道徳もへったくれも無い。

 

羊飼いであると同時に羊でもある。羊飼いであれるかどうかは人に依るだろうが(=_=)子供の頃は羊で大人になればだいたいは羊飼いをやるが老人になれば羊に戻る。人生を通して羊である者もいるだろう。羊飼いでありながらある面では羊である者もいるだろう。

 

とまぁそんな具合である。人間は動物であり、かといって完成された動物では無いのだからそんなもんだと思う。その動物を分類すれば色々な種類に分けられるんだろう。なにせ73億人もいるそうだから。

 

てか多すぎだろ(=_=)さすがに計画的に減らせと思うね…。

 

みんな違うが容赦しろ、という話である(=_=)

わけの分からないごった煮みたいなもんなんだから…。

 

犬は犬種で性格が違うが、人間もそのようなところがあると思う。だから中には相性の悪いもの、劣ったもの等あるだろう。理想としてはそういうものに整理を付けて、容赦できるようにシステムが整理されていくべきなのだろう。

 

現時点においては、私の語るような理想に遠いことは目に見えて分かる(=_=)私は、チワワもヨーキーも器質的にあんまり好きじゃない。けど、どこかでそういう犬でも生きていければ良い。というか生きていけないなら増やすなよ(>_<)

 

その辺もまぁ結構闇が深いっぽいが…(=_=)

 

最終的に性格が穏やかなものに組み替えられるとか、淘汰されるのは仕方ないが、現状において生あるものは…という話。まだ生まれる人間の優劣についてまで運を天に任せてサイコロを振れとは言わない(=_=)その辺はどうすべきなのか考えられもしないし。淘汰すると文明の進歩を抑制して滅ぶだろうか?その辺が良く分からない。

 

ただ生きている人間については可能な限り人権が尊重されるようであって欲しい。それを個人でやれとは思わないし、仕組みとしてそう流れるようにして欲しいという話である。

 

個人の話としては、人間に能力差が広くあることを認識した方が良いと思う。性格にせよ知能にせよ運動神経にせよ何にせよ。人間について詳しくなるというのは魚類について詳しくなるくらいに思った方が良いと思う。

 

そのくらい人種に精通するには広い領域を網羅する必要がある、という風に考えた方があてが外れないように思う。自分個人の経験を感性を誰にでも当て嵌めて何でも理解できるはずだ、と簡単に考えられがちだが人間の幅はそのように狭くは無い。

 

他の哺乳類であるとか異なる種族を学ぶ際のように人間を、他人について学ぶ必要がある。

 

自分という人間あるいは他人という人間は、人間の一個体である。だから同じじゃ無くて当たり前だろう…(=_=)差別してしまうのも当たり前だが個々人は人権において暴力から守られねばならない、と言って私は道徳上の「してはいけない」理由を付ける。

 

平等で対等だからではなく、人権において。動物には動物の権利があるように人間には人間の権利がある、ということである。人間は他人同士平等でも対等でも無いが人間として生まれてきた時点で人間として扱われるべきであり、そこには人権が発生する。

 

愛玩動物を扱う際に動物の権利(アニマルライツ)を守らねばならないように、人間を扱う際には人権を守らねばならない、と考えれば良いと思う。

 

そうであれば、何故人を殺してはならないのか、という問いには、他人の人権を侵害するからと答えられるだろう。そうすると同意においては安楽死も認められるのかもしれないが…(=_=)意志の確認というのは鬱病に見られるように難しい問題である。

 

自分の人権が脅かされるとき、じゃあ他人の人権を侵害していい、という訳では無く、両方の人権が守られるように手を打つことが適当だろう。正当防衛による暴力等は人権侵害の状況的な情状酌量の余地の問題だろう。

 

能力差はあるのが当然だし、劣るものがあるのも当然だし、見苦しいものがあるのも当然だし、しかし人権において自分も他人もみだりに脅かされるべきではない。

 

ただし、物事の優劣というものは存在する。

 

私の意識においては、

 優れたものは優れている。劣っているものは劣っている。見下されるものは見下される。差別されるものは差別される。称揚されるものは称揚される。否定されるものは否定される。

 

そうした評価を下すことは良いだろうけれど、私は他人の人権には配慮しなければならない。

 

こう書くのは、思うことすらいけないのだ、と言う人もいるからだ。見下してはいけない、差別してはいけない、否定してはいけない…という人がいるからである。

 

私は個人においては、そうしても良いと思う。但し、社会において、それが見下した人の、差別した人の、否定した人の人権を脅かした場合において問題にされるだろう(=_=)

 

意志表明が、言葉が下手な人は他人の人権ごとぶった切りそうで、あるいはぶった切って炎上し、何も言えなくさせられるが(=_=)

 

炎の魔法剣の使い手だね。

 

実際、その辺は伝え方はとても難しくなってきているという風に思える。この時点では私も何とも言えない。婉曲な言葉で、皮肉を用いて、背中から刺すような人もいるし(´・ω・`)バックスタブはクリティカルと補正ダメージ入るんですよ。

 

そういうのは自分の意見の伝え方じゃなくて人権シールドを貫通するか無視して攻撃を加える方法ですね(´・ω・`)

 

ばれなきゃ人権侵害しても構わない。という構え。みんなやってるパナマ理論(=_=)

 

そんなものは認められるわけないじゃないですか…(゜-゜)