LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

歳を取って一人が寂しいということに気づき嫁を欲するという間違い

ACだのう。

人は一人で死んでいくものだ。伴侶はいつか死ぬ。

自分が看取って貰えるとなぜ思うのだろう。

最近は人は病院で死ぬ。

一人暮らしでも医者に看取られて死ぬことも多いだろう。

孤独を癒すために伴侶に頼るのは、犬猫を飼うのと同じ気持ちからだ。奴隷である。

 

子供を作りたい、と言って、孫が欲しい、と言って、その心根は自分を見捨てない人間が欲しい、と言うのである。要するに保険だ。

 

まぁ、極論だが。

人間は社会性の動物で、誰かの支え無しには生きていけないから、本来社会で繋がり合う必要がある。友達とか。

 

男性は特にそうした共感の機能が弱く、繋がり合えないから、家族や会社というコミュニティに依存しなければ、自分を支えてくれる繋がりを作ったり維持することができない。

 

と、いうので家族を持ちたいと言い出す。その癖、それを維持する努力はしたくないといい、不倫したいといい、家族サービスはしたくない、というわけである。自分の城が持ちたい、と言い、家族というのは下働きのメイド等の奴隷。

 

そういう「普通」の家庭が欲しいというのでは、どうしようもないなと思う。

 

家族も友達も所詮、他人で、繋がり合うにはコストを支払わなければならないと思う。支払わないから熟年離婚したり見放されるわけであろう。

 

そういう人は、寂しいと言ったとしても、向いていないのだ。

 

 

 

 

 

同性愛に関する勝手な想像と偏見

同性愛に関して

同性愛者は友達を作るのが難しいのではないか…。

なぜか。

同性に対して、恋愛感情を持ち込んでしまうから。

性的志向とはセックスしたい相手→恋愛したい相手みたいな話だと仮定して。

 

男女の友情が不可能だ、と言われるように、同性愛者の立場になれば、同性との友情の構築が不可能になるのではないか。

 

かと言って、異性は異性の側の性的志向の結果、友情を構築することが難しくなるだろう。

 

同性愛者には友達が少ないという傾向を予想する…(´・ω・`)

 

だから、パートナーにも依存し易いような気もする。

 

そんなことを考えてメモしておこうと思った次第。

 

異性愛者は「そういう人もいるよね」と言って「認める」というのだが、この「認める」は私と関係しない限りにおいて認めるという認めるであることが多いと思う。

 

異性愛者は同性愛者と関わり合いにはなりたくないだろう。それは同性愛への理解が面倒だからだと思う。

 

周りには同じ異性愛者が大勢いるのに、なぜ同性愛者と関わり合いにならなければならないのか、と。なぜ面倒か、と言えば、自分が性的志向の中に入れられるから。

 

女性が女性同士集まるように、男性が男性同士集まるように、性的志向を省きたい関係性というものがあって、同性愛者はその場にそぐわない。

 

だから、孤立しやすいのでは無いかと思う。同性愛が悪いというわけでは無く、人々の志向性の結果、そうなる、というか。

 

学校でも男女が同じ部屋で着替えるなんて光景は今は無いので。理屈上は同性愛だと性同一性障害と同じように、個室を用意する等しなければならないと思う。

 

そういう部分が物理的にも精神的にも面倒なのだと思う。そして、男女というシンプルな分類、認知を阻害し判断のスムーズさを害するので邪険にされてしまう。

 

発達障害者も特権階級などと揶揄されることがあるが、なぜ少数のマイノリティのために「そこまでしてやらねばならないのか」という異性愛者の同権意識のようなものがある。

 

要は左利きは右利きに合わせて右利きの道具を使え、という。

なぜ左利きの道具をわざわざ用意してやらねばならないんだ、という。

 

私たちには何の得も無いじゃないか、というお馴染みの「お前ばかりズルい」という心理である。

 

同性愛の人間の生きる難しさ、というのは、そういう話なので、ただ健常者が「認める」と言っただけで解消されるものではなく、色々配慮して制度を整えたり環境を整えたりしてやる必要性があると思うのだが、そういうと「なんでそんなことをしてやらねばならない」と健常者は反発するわけである(´・ω・`)

 

そういう類のものである、ということを殆どの健常者が理解していないというのがまた問題である。

 

要するに女性専用車両が必要でしょ、みたいな話と同じなわけで。そういう問題がマイノリティの数だけ増えるという面倒な話であることを健常者は理解せず、ただ「認める」と言えば済むと思っている。

 

この「認める」というのは「認めるが私の目に付かない場所で勝手にやってくれ」という話であることが多いわけで。

 

彼らからすると、何も困っていないのだから、そんな余裕は無いよ、という話であろう。

 

そういう生き難さなんだろうな、とか。

 

 余談だが、その私の理屈で言うと、同性愛者は同性愛の異性と友達になれると思う。互いに相手に恋愛脳を持ち込まなくて済むので。

 

 

 

 

くまみこ と REゼロ 3話 感想

今期は「くまみこ」がお勧めかな。

 

REゼロはお勧めはしない(笑)スバルうざいですよね。ただ、そのうざさも物語の勘定のうち。スバルがエミリアに否定されてからが本番だから(´・ω・`)

 

ただ1期でそこまで行くかな、行かないんじゃないかな、みたいな。エルザ戦もアニメはそんなに面白く無かったですね。描写が冗長で。苦戦感がイマイチ感じられなかった。

 

ラインハルトも私の想像とはキャラデザが違うというか。もうちょいイケメンにして欲しかった。

 

「くまみこ」は安定して面白い。主人公の声が好き。可愛い+エロい。ロリエロ可愛い('_')

 

まぁ、去勢された熊=理想的な父親という感じですかね。父と娘の日常的な…(´・ω・`)「こんな父親が欲しかった」的な話なのだろうか…。そう考えるとエグいな。女性作者らしいが…。

 

まぁ、くまみこは、REゼロと違いアニメーションにセンスを感じる。REゼロは小説に絵を付けた感が強いかな。小説・漫画・アニメ・実写と違う表現技法で違う強みがあるんだから、というところを造り手がよく理解しないと良いアニメにならないなー…みたいな。

 

「くまみこ」はその点、アニメの強みだなーと思える。EDも好きです。男女の掛け合いで上手くいってる萌えアニメってあまり見ないので。

 

「繰繰れ!コックリさん」に似た関係。男は去勢されてないとダメなんだろうな…(笑)「未確認で進行形」も相手は犬だし。高橋留美子の「らんま1/2」とか。

 

女性主人公に性的な目を向けちゃダメなんだと思う。性愛は愛に非ず、的な。セックスを消したいんですよね。男女関係において。

 

だから、日常ものは、男だけか女だけか、みたいになりがちな気がする。恋愛感情を排除したい、というか(´・ω・`)セックスというのは恋愛なんですよ。

 

極論を言えば、目と目が合った瞬間でさえも異性間には恋愛勘定?が生じるので色目を使ったと見做されれば浮気です(´・ω・`)

 

癒しアニメや日常系は、そういうのが面倒なのでシャットアウトした空間を作ろう、みたいな話なんじゃなかろうか…。

 

ただ恋愛というのも人生に潤いを得るための手段というかね…。要は生きる活力を得る為に必要な活力の一つみたいな気はする。誰にとっても。

 

結果として遺伝子を残す羽目になる、というだけで、花の蜜の香りに誘われる蜂みたいなもんですよね。

 

だから青春学園ものみたいな甘酸っぱい、きゃっきゃうふふ(死語)な要素って誰しも求めてるんだと思いますよ。理性的に抑えているだけで。犬が腰振ってくるみたいなもんで。あれって遊びであり好意を示しているというか…(´・ω・`)

 

思うにSEXもその感情の延長でしょう。少なくとも男性の脳的には。年寄りの恋愛を描く映画とかあるけど、異性を求める気持ちに年齢は関係無いのかもしれない。

 

とは言え、30歳差の恋愛とか私は全力で否定しますが(/・ω・)/少なくとも子供は産むな。不幸な子供が増えるリスクが増える。男性の高齢化が自閉症の子供を作るリスクを増やすらしいからね…。

 

せいぜい10歳差ですよ。親と子くらい離れて恋愛してる人を私は差別する。他人と対等な関係が築けないんだろうな…とか。

 

私は対等さに拘るんですけどね…。

 

私は発達障害系の女性を嫁にしようとする男性も定型であろうと差別する。

 

障害のある女性を好きになる男性みたいな話で「こんな障害があるから誰かが守ってやらなきゃダメなんだ」と言って、そのことに依って自尊感情を保ってる男性というか…(´・ω・`)

 

弱みに漬け込んでる自分自身にある日気が付いて自己嫌悪したりしないのかな…と思う。

 

まぁ男性か女性かは関係無いですが。共依存的な関係というか、相手に依存したくないんですよね。敢えてそうさせようとしてくる人間が嫌い(´・ω・`)

 

ADVゲームで多そうだけど。私がいなきゃ生きていけないでしょ?みたいな状態に持ってく人。でヒロインも「その通り」とか言う。

 

私はそういうの嫌いですね。不健全な気がして。母親とか多いんですよ。このタイプ。子供に人生を捧げたから、あなたも私を見捨ててはいけない、みたいな…。恩を着せて情に縋るタイプ。

 

そうしないと私が誰にも顧みられないじゃないか…みたいな。そんな付き合い方をして疲れないのかな…と思う。私は恩も情も着せたくないので( 一一)

 

仕事を「ありがとうと人から感謝されるためにやっている」という人は感謝されないことに腹を立てたりするじゃないですか。一方私は何であなたの存在意義のために私が感謝してやらなければならないわけ?と思う。

 

感謝分が給金でしょ、と( 一一)

それ以上何を求めているんだ。感謝してあげたら私にお金くれるの?と思う。チップ制ですよね。感謝というチップを払わなければならないと思っている人がいる。クエストをクリアしたらそれが貰えるべき、みたいな。

 

育てて貰った恩を忘れたのか!みたいな(/・ω・)/

 

お前が言うな、という。「頑張ったんだからご褒美ください」と言ってるわけですよ。彼らは。君が勝手にやったのだろう…。誰も君に頼んでいない。

 

人から感謝されるのが労働の遣り甲斐である、という理屈もやはり押し付けがましいものを感じる。私はそれで納得できないし。喜んでくれる人がいてうれしいでしょ?と問われる。別にうれしく無いけど。

 

そう言うと溜息を吐かれるわけである(苦笑)なぜ私に同じ理解を求める。私とあなたは同じじゃないんだ。処置なしと言いたいのかもしれないが。私は健常者では無いから全て自分と同じだと思わないで欲しいな。

 

労働をする理由は違ってくる。表現をする理由は、昔は自己表現のためだった。最近は自己承認のためだったりするらしい。表現をする理由が「自分を表現したい」と思い込んでいる人が多いらしいが、表現をする理由が「自分が人から認めて欲しいから」という人もいるらしい。

 

恋人が恋人の趣味に合わせるみたいに、表現者が読者の趣味に合せるように創作するということが言われている。

 

労働に自己実現を求めたり、あるいは自己承認を求めたり、自己表現を求めたり…「感謝されたら嬉しいでしょ」なんてのはあくまであなたの理由なわけで。

 

無論、結婚の話も同じであろう。30歳差で結婚する人には、その人たちの理由があるのだろう。ただ私はそういう理由に無理解なだけ。無理解だから同意もし兼ねるという表明。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

凡人ですら無い話

主人公でも無いし、普通でも無く、更にはアウトサイダーである。

 

ドラえもん から 妖怪ウォッチ へ みたいな話を読んで、現代の子供に「のび太君」や「ジャイアン」みたいのに共感を抱く子は寧ろ少ない。寧ろ「普通」ということに悩む子が多い、みたいな話を読んだんだけれども。

 

まぁ、それは時代性とも関わっていて、どう頑張っても、低空飛行していく日本の構造から外へ出れないみたいな…。その中で自分が努力したところで他人より秀でるものなどない…的な意味で「普通」なのかな、とか。凡庸というか。

 

要するに未来に展望が見えない、という世界観を引きずってるんだろう…(´・ω・`)高度経済成長の頃は凡庸でも出世できたので希望を持てたわけなんだろうけども。

 

要するに「普通」や「凡庸」というのは「天才」や「金持ち」との対比というかね…(´・ω・`)妖怪ウォッチは見てないので、恐らく、という話。

 

どうも「新世界系」という物語類型の話になると、この「普通・凡庸」ものの話になる。主人公との対比。「選ばれていない私」。その一つギアを落とすと喪男・喪女の話とか。逆に選ばれてる的な(苦笑)『声の形』が今度アニメでやるらしいけど、要するに死のうとか思っちゃうくらい底辺の子の話。

 

1.ヒロイックなトップランナーの話

2.一般人たちの話

3.シビアな話

 

みたいな類型ができると思うんだけど。「聲の形」を私はあんまり評価してないけど。ただ「問題がある子供たちの話」としては、あの路線でバッドエンドに行くのが私の話(´・ω・`)

 

ドラえもん』も発達障害の話と言われてもしっくりくる。問題児の話ですよね。『ちびまる子ちゃん』とか。精神医学が無い中でそういう子供たちを「性格」として受容しようとする話なのかもしれない。

 

ただそういう子供たちが実際には目立つけれども「私」じゃないよねというのでウケなくなっていったんだろう…。で、メンヘラブームというか。『新世紀エヴァンゲリオン』~『魔法少女まどか☆マギカ』くらいの間で描かれた葛藤はまだ「普通」では無く病気寄りだったと思う。あるいは問題を抱えた不幸な一般人の私、とか。

 

20世紀の教育や社会は一般人でも辛いものがあったと思うし、今よりもキツイものがあると思う。モラハラ的な、パワハラ的な意味で。だから「病んだ一般人」のモチーフがウケたんじゃ無いかな…。

 

まぁ、「松本サリン事件」の浅原彰晃は病んだ障害者だと思うけど…(-_-)時代を象徴するね。「3.シビアな話」にそういう人達を私は入れると思うけど、こういう人達は幸せになりたいけどなれない現実の構造の中に深く嵌り込んでると思う。3の話はこういう人がじゃあどうやったらまともに生きられたのか、という話だろう。

 

新世界の話は「不意打ちで死ぬような世界」の話らしいけど。主役級でも突然の一撃死的な。『ハンターxハンター』的な。もう一つは今のシリアに生まれて生き残って幸せになる話を書けみたいな。環境が圧倒的に自分を殺しに来ている現実に生まれたら?という感じの話。

 

「2.一般人たちの話」は少なくともそうではないでしょ。なんか漫然とした不幸な日常の中で淡々とすることをして生きなければならない的な。あるいは不幸ですら無いのかもしれない。

 

義務教育が楽しかったとかヌルゲーでした、という人達もいる一方で、特に酷く虐められたわけでも無いのに死ぬグループがいるわけですよ。そういう人が3の人たち。発達障害の私もそこに入る。環境が私を殺しに掛かってくるので(苦笑)

 

ヒミズ』みたいな話だと思う。2ですら無い、という。特に不可逆的な障害が自分にあると自助努力では到底抜け出せない。無くても抜け出せない場合も勿論あるわけだけれど。

 

運が良ければ何とかなったのにね…みたいな分かり易い抜け道があるから微妙(苦笑)極端な例を言えば「頭以外全身マヒして言葉も外へ出せない状況で如何に幸せに生きるか」みたいな悩み方。

 

実際、そういう人もいる。そういう系がひっくるめて3なので。環境が自分を殺しに来ている、というか、選択肢を封じに来ている、というか。

 

「友達を作る」とか「会話を楽しむ」という選択肢を私は封じられているから(笑)知的障害なら「良い大学に行き、良い会社に入る」という選択肢も封じられる。そういう風に何らかの環境的要因によって幸福を封じられた人はどうすればいいんだろう?という話。

 

封印が永遠に解けないものとして。それが3の話。

 

友達を作って、運動をして、仕事をして、食べて、寝て、趣味の一つもあれば幸せになれる…と一般人は思うかもしれないが、

 

私はどれ一つ満足に出来ない、みたいな(苦笑)努力の問題では無くその能力は封印されているので出来ない。だから、じゃあどうやればその条件で生きている私は幸福になれるの?という問いですよ。

 

健常者の言う幸せの条件を満たせない私はどうすれば幸せになれるんだ(/・ω・)/

 

特に孤独ですよね(笑)孤立か。「一人にしない・させない」→「私は一人でいたいんだ。けど寂しくて死にそうだ。尚、コミュ症」

 

こういう人がいるんだ。というか私だが。こういう人のための物語は無いからね。ラノベには(笑)ゴールデンレトリーバー祭みたいのが開かれれば、そこに埋もれてしばらく幸せで居られそうだが。尚、世話はできない(笑)

 

まぁ、そういうテンプレの幸せじゃ自分が幸せになれないから、自分で探すなりするしかないんだろうね。あとテンプレでなきゃ幸せじゃないとか決め付ける発達障害も多いのさ。

 

結婚できなきゃ人間じゃないみたいな(笑)子供産まなきゃ女である意味が無いとか。子供産まなきゃ幸せじゃないのね。

 

そういう風に拘る人が多いらしい。私も「友達」に拘るしね。世間も煩いんだ。「友達」がいなければ絶対に幸せになれないってね。孤独・孤立いけない絶対。

 

念仏のように「幸せとはかくあるべし」と聞かされ続け、それしか無いような気にもなっているわけで。それ以外の幸せを教えられてもいないしね。それらがあらかた手に入らない自分はなんて不幸な人間なんだ…という。

 

日本は特に等質性が高い空間だから、そう思いやすい。加えて私の特性である。認知の歪み。0か100か。とかね。猶更、そうとしか見えない。写輪眼の幻術に自ら嵌っているわけでね(>_<)

 

不幸な人というのは自分から千尋の谷に落ちていくんだ。馬鹿や阿保で自らの頭によって落ちる場合もあれば、地震で足元が崩れることもある。私は前者も自己責任だとは思わない人間だからなぁ。

 

生まれながらに自然災害に遭ったみたいなもんでね。突然死か長く苦しめられて最後に首吊るかの違いみたいな。どっちも新世界の暗黒面に堕ちてるんだ(>_<)

 

Fateの言峰綺麗みたいなね。日本に生まれてきた時点でこの人首吊りまっしぐらですからね。正直、動物園とかに一人で閉じ込められていた方が幸せになれるだろう。人に害をなす前にね。

 

そういう人でも社会に解き放たれて犯罪を冒すまで野放しにされ、犯罪を冒したら処刑されるわけですよ。再犯しない自信が無いから刑務所に居たい強姦魔みたいな話ね。

 

自由という罪だから(´・ω・`)自由を扱いきれない人間は刑罰に処されるわけですよ。逆説的に言うとね。

 

特に資本主義社会で自由でいいよと解き放たれて幸せになれるよって人は限られてるんですよね…きっと。

 

地震とか来るとそういうことがよく分かると思うんだけど。「どうすればいいの?」ってなるでしょ。動かなければ「指示待ち人間め」と言われ、自分の意志で動こうとすれば迷惑だからお前は動くなと言われ(笑)適切な行動とは一体(´・ω・`)

 

この社会で自由を行使するのはコミュニケーション技術くらい高い技術だから(/・ω・)/…普通の人にはそれが分からんのですよ。

 

例えば、知的障害者はレベルによっては金も使えないし生活保護も求められないんですよね…。技術(スキル)が無いから。彼の目線から言えば自由は法律を理解して守れるだけの能力がある健常者の特権ですよ。だから特権を持つ人に身を委ねないと生きていけない。そういう代理の人間を建てるわけですね。実際。

 

そういうことへの自覚が広がって欲しいな。

頭が良く無い人間は自業自得…って世の中じゃないですか(>_<)

それはね「正直者が馬鹿を見る」世の中だから。「正直者でも馬鹿を見ないで済む世の中」になって欲しいわけですよ。理想的には。

 

遺伝子系の疾患で疑うことを知らない善人病みたいのがあるじゃないですか。名前が思い出せないんですが…(´・ω・`)あぁいう人は誰かが守ってあげないと判断を尊重すると騙されて破滅するルートに直行ですからね…。

 

馬鹿なだけで破滅していく人があまりにも目につくような気がする。善良なだけでは生きていけないんですよ。それだけじゃ、まともな判断ができないから。

 

逆に言うと、馬鹿なだけで善良な人は割といると思うんですよね。そういう人が苦しい生き方をしなければならない。頭が悪いから(苦笑)

 

私は善良ですよ。どちらかと言えば。けどやる気が無い。能力も無い。圧倒的に。慢性疲労症候群みたいな話で。だから「元気が無くて会社に辿り着けないんですけど」みたいな。面接の時点で(笑)

 

半覚醒とか言われるわけだけど。

デイ・ドリーマーとか。

 

「やる気あるの?」とか言われるわけですね。

私は正直だから「ありません」と答える。

「じゃあ帰れ」じゃないですか。

だから面接とか無理ってなるわけですね。

 

不注意優位型は。

それで「やる気出すお薬」によって薬漬けにされて治療。

私は正直、お薬なんてもう飲みたくないですよ(´・ω・`)

やる気ないのが私ですよ。やる気出した私は私じゃ無いから。

 

まぁ、それで、

そういう人は生きていけないんだと思うわけで。

生きるのに向いていない、って自殺した海外の子がいたでしょう。

人並みに働いて生きるってこと向いていないんですよね。

色んな意味でついていけるように自分が出来てないように思う。

 

仏みたいに善良でも(笑)

人並みに頑張ろうとしただけで燃え尽き症候群に罹る。

「お空綺麗」状態である。

 

実際、それで人生を転落していくんですね。

Zガンダムのラストのカミーユみたいになるから。

しょっちゅう。

 

とある風俗嬢の人がそんな感じの人で仕事が続かない。やる気無くなっちゃって…。って書いていて。私は不注意優位のADHDなんじゃ無いのと思ったけど。その人は自分をただやる気ないダメな人だと思ってる。自業自得だと。それで風俗落ちとかね…哀れだよ(´・ω・`)

 

そういう脳なんだと思う。人口の数%のね。

鬱とか慢性疲労症候群とか、発達障害とか。

やる気が無い、というのは自己責任じゃ無いと思うんですよね。

私は生まれてからこの方、日常的にやる気があったことがあるだろうか…(´・ω・`)

 

学校で「はい。元気です」と毎日HRで答えなければならない、みたいなことがあったのだけれど、私は元気なんてあった試しが無い。毎日雨天である。なので「元気は無いです」やら「体調が悪いです」と答えることが多かったけど、心配されるので次第に答えにくくなるわけである。

 

この時点で発達障害的なエピソードだけれど…。ただ他の児童は元気が実際あったのかもしれない。私に無いだけで(/・ω・)/スパロボで言えば、要するに初期気力50のキャラだからな私。

 

その状況でよく頑張ってきたな…と思うよ。我ながら。生きる気力も無いし、何も成せなかったけれど( 一一)

 

エネルギーが無い状態で頑張らなければならない、という状態の無理…ね。

 

そりゃ不登校にもなるよね。

 

私の独特の幼少期の世界観は恐らく半覚醒状態だったことに由来する気がする…。現実感が無かった記憶が結構あるんですよね。それは不注意優位で現実が夢現(ゆめうつつ)だったからかもしれない。

 

そういう状態でハキハキ生きろと言われても無理でしょ(*ノωノ)まぁ、ある時点で張りつめた糸が切れて現状のように無気力化したのかもしれないが…。

 

生まれた時点から既にやる気無かったんだと思うな…私は(/・ω・)/

やる気の無い人間に対してみんな辛辣ですよね。やる気の無い人間に対して社会は厳しくできていたんだと思う。実はこの辺がかなり負担だったのかもな…。

 

無いやる気を偽装する、というか(´・ω・`)生き足掻いていたので、そうせざるを得なかっただけで、本当はやる気なんて微塵も出したくなかったんだろうなー…。そういうやる気は自分の首を絞めてキリキリ締め上げてく感じ。

 

だから、私は歪んでいるんじゃないかと思ったりする…。

 

人間ってのは羊飼いであり羊でもある…という感じなので。私は限りなく羊ですよ(´・ω・`)羊飼いにクラスチェンジするには初期ステータスがあまりにも足りていないと思う。

 

 

 

 

障害と付き合う

発達障害らしい行動を自分がとって失敗してしまった時に、これは発達障害的な失敗だな…とか思う。障害による影響だな…と思って、色々距離が取れるようになるかもしれない。

 

自分もそうだし、他人の失敗もそうである。

 

思考が飛んでいるな、とかフラッシュバックしているな、とか、新奇性による影響で目移りしているな、とか事後的だが障害と分かっていれば客観視して気づくことができる。

 

改めることは出来ないが(苦笑)

 

猫がネズミを目で追わずにいられようか…(´・ω・`)という例えをしていた人がいて、脳の障害とはそういうものかもなぁと思った。

 

 

人間が嫌いか

人間とは何だ 大勢いるな

 

人間とは何だ 私は何だ 人間なのか

 

人間とは何だ 動物なのか 私は人間なのか 私は動物なのか

 

犬や猫 鳥や豚 馬や牛 猿は動物なのか 人間は動物なのか

 

境界が見えない 境界を見たい

 

国境のように 境界は見えない

 

境界は人間が引いたのだ 人間とは何だ 動物だ

 

動物が境界を引いたのだ 人間という動物だ

 

人間とは何だ 動物だ 所詮 同じ 動物なのだ

 

私とは何だ 人間だ 所詮 同じ 動物なのだ

 

動物とは私 母であり 父 周りであり 人間文明全部

 

動物の仕業である

 

死んでも動物の一匹が死んだに過ぎず 

 

一方 犬猫でさえ友の死を嘆き悲しむ

 

 

 

 

 

人それぞれ

人それぞれ、多様性…そんな言葉で発達障害を鵜呑みにすると、そこで試合終了だと思う。

 

人それぞれ、多様性…を「子供騙し道徳」の辞書に載せよう…。「友達100人」とかの語彙が載っている。

 

発達障害の症状は多様だが、それぞれ分解し分類することは出来る。大まかに。アスペとADHDとはハッキリ異なる。但し、併発するそうだが。その上に二次障害として「重ね着障害」みたいに精神疾患系の症状が重なる。先天的なものに後天的なものが重なり症状は分かり難くなる。

 

それを「人それぞれ、とか多様性」と呼んでいる。他人への説明としては問題が煩雑過ぎるからに過ぎない、と思う。

 

健常者はそれに対して「私たちも人それぞれだよね」と応じるので誤解が生じるのである。障害や疾患の話をしているのに性格の問題に摩り替えられてしまう…。

 

自覚の無い発達障害者は特に自分のドジさについて性格的な「人それぞれ」として納得したがる。彼らが社会から認められている人間であればあるほど障害が「些細な欠点」であり「取るに足らない問題」にされてしまいがちだと思う。

 

要するに、成功している当事者に失敗している当事者が足を引っ張られるという構造が発生している。特に「精神論者」「根性論者」である未診断の発達障害者は多いと感じる。そういう人ほど自分の人生が困難だったので他人もその困難さを努力で克服しなければならないものと思い込んでいるきらいがある。

 

それは中途半端に社会に適応できて引っかかって生きている人間のルサンチマンだと思う。張りつめた糸がいつか切れるのを恐れながら日々の労働を送っているという発達障害者がいるが、その糸は切れるものだと思う。

 

そういう状態で糸を切らせずに綱渡りで生きている人たちがいて、こういう人は楽に生きている人を許せない感情を吐き出したくてたまらなくなる。

 

その生活はおかしいのである。普通は、そこから逃げ出さなければならない。利口な人はそう考えるだろうと思う。それは人の生活じゃないと看破し得る経験を持っているからである。

 

一方、私のように人間関係において社会関係において苦役の経験しかなければ、それが人間関係であり社会関係の全てであろうと見做す。だから「楽な仕事などありはしない」というように発言し、信じている。

 

強制収容所しか知らない人はそれが世界の全てだと見做すだろう。健常者は色々な経験をし得る土壌が自分にあるが、発達障害者は偏った経験を積みやすい。そして、だからこそ同時に社会が偏ったものであると見做す。偏ったものの見方をすることも事実だが、現に発達障害者にとっては障害の多い偏った世界であることも事実だ。だから健常者が観察者でも世界が発達障害者にとって困難であるという結論を出さざるを得ないのではないか?

 

実際、発達障害者にとっては偏っているのだ。自分と同じ人間が1%しかいないなら99%は違う人々なのだから。逆に99%の人々は99%の人間は自分と同じだと思うだろう。

 

どちらも間違ってはいない。住んでいる世界が違うだけで。「健常者は二枚舌だ思え」というADHDのテンプレがあったが、異なる世界の異なる現実の話をしているだけである。

 

異世界の話を発達障害者は自分の故郷の話だと思って聞く。男性にとっての社会と女性にとっての社会が異なるように、健常者にとっての社会と障害者にとっての社会はかなり次元の異なる世界の話である。

 

女性が管理職になれないみたいに障害者も管理職に就くのは困難を極めるだろうが、そういうイメージが健常者には欠けているのだろう。男と女が平等であると信じているように、健常者と障害者が平等であると信じている。

 

私たちは健常者が世界を正しく見ているはずと信じたがる。彼らこそ正しいのだと(/・ω・)/だが健常者は、健常者の男の異性愛者の中級階級の都市の中偏差値の大学出の公務員の視点から見た自分の経験上の社会の話をしているに過ぎない、みたいなことが多いだろう。きっと。

 

互いに、そのことを意識しないと「お前は嘘つきで二枚舌の偽善者だ」という評価になる。特に相手が私を「同じ健常者」だと思っていて、私も「同じ健常者」だと思っていると当然、現実認識は噛み合わない。

 

相手が私を同じ人間だと思っていて、私が相手を同じ人間だと思っている場合もやはり当然話は噛み合わないだろう。私が障害者であることを私も彼も理解して初めて話が通じる前提ができるわけで。

 

脳障害に関して当人が自分の障害を受け入れるということは随分難しい課題ではないか、と思う。身長や体重、容姿、学歴等へのコンプレックスを克服することくらいにはそれは難しいのではないだろうか…。

 

つまり、私は障害を受け入れているようで実は受け入れられていないために話が通じない恐れがある…(´・ω・`)実際、人格攻撃と障害に対する苦言とをどう選り分ける?あるスレで人格(障害)を否定され続けたアスペは自殺念慮を示していたが…(´・ω・`)

 

多分、それで死ぬ者も多いわけであろう。甘え死である。甘えで人は死ねる。尊厳が傷ついても死ねる。否定され続ければ首吊りである。

 

発達障害を告知されてもやはり私は苦しむし、告知されなければもっと苦しむのである。それは人格と障害をどう分けるのか、という話であろう。

 

私は不規則な人間なので、規則正しい生活は無理だと思う。そういう性向の発達障害者が、規則正しく生きようとしても、恐らくストレスを抱え続けたまま生きて、そのうち疲弊してくるだろう…と予想する。

 

そうだとするなら、規則正しい私にはなれないだろう、とか。障害があると分かっていても、それを上手く避ける術が無くて、自己イメージが悪いまま、みたいな。

 

受け入れたら、それで解決という話は無くて、難病との付き合い方みたいな話になるだろう。認知症になったら死にたいという人がいるが、脳の障害を受容しろというのはそういう感じだろう。

 

ADHDはメモを取れと言われるが、どう考えても『博士の愛した数式』みたいになると思う(´・ω・`)というか私はなった。そして、結局は溢れたメモに埋もれて見なくなったな…。

 

ちなみにアイディアメモを取るとメモのメモを取り続けて一日が終わりかねない。そしてメモを見るとメモのメモを取り続けて一日が終わりかねない。そしてメモを見ると…エンドレス。

 

だからアイディアメモも続かなかった気がするな…。

そんなもんだから私は自分が認知症になっても物忘れ程度では気づかないんじゃないかと思う(´・ω・`)

 

片付けられないという特徴があるが、メモも片付けられない(笑)そしてメモをみて気が散る。そしてメモを見て気が散る。エンドレス。

 

凄く重要なことだけをメモする程度に留めた方が良い気がしたな( 一一)

 

 …閑話休題

 

何かあると「アスペ」というレッテルを貼る。けれど、だからと言ってレッテルを貼らない方が良いかというと違う気もする。

 

相手を日本の健常者の男性の何歳の身長何cmのどんな容姿の…云々と分別していくことは、無意味では無いと思う。プロファイリングじゃないけれど。「人を見た目で決め付けちゃいけません」も「子供騙し道徳」である。本気にしてはいけない。本気にした子供が無差別に人に接してしまうのだから…。

 

常識ある健常者は「見た目不審者…しかし私がそう考えていることを相手に気取られてはいけない」と考えていると私は考えている。お前は次にこう言う。「お客様何かお探しでしょうか?」

 

スーパーに買い物に行くと「いらっしゃいませ」と声掛けするが、特に挙動不審な客に対する万引き防止的なアピールらしい。私は挙動不審なのか…そうだろうな(´・ω・`)

 

宿屋の女将さんは面倒な客に対して「お金だと思いなさい。人の形をしたお金だと」と言ったらしいが、そんなことは悟らせない。私も恐らく「お金」だと思われているわけである。

 

人と接するとき、問題がありそうな人には極力近づかないが、発達障害精神疾患に対する知識を持っていると、問題を起こす他人に付けるラベルが増える。そうしてペタペタ貼っていくと良いんじゃないかと思う。

 

重要なのは貼っても貼ったことを悟らせないこと。

 

私は障害や病気だと思う方が理解できるし許せる気がする。性格や人格という言葉が最近出て来なくなったが…(-_-)

 

国や皮膚の色でも人を区別した方が良いですね。そこまでの知識があれば…ですが。区別しても知識が間違っていればただの誤解(-_-)

 

人種や皮膚で区別するのは、その人の文化的バックグラウンドを知るため、というかね。宗教なんかは寧ろ区別して欲しいだろうし。菜食主義だとか。

 

まぁ、差別してはいけないを鵜呑みにしている人が多そうなので(>_<)男女の区別くらいは付いた方が良いと思うけどね…(-_-)

 

LGBTの人で、性の好みは流動的だ、と言っていた人がいて、年齢で変わってくると言うんだけれど、恐らくLGBTのその人の脳がマイノリティで性の好みが流動的に変化するような脳、だったんだろうと思う。

 

発達障害の場合、自我の同一性が確固となり難い部分があって、自分が男なのか女なのか分からない、みたいな時期もある。そういう人の脳は性を錯覚する可能性があると思う。

 

あるいは境界性障害で多重人格が出ると男と女が混じっていたりするが、そういう風に性の認識も不確かになり易い。

 

あくまでもそれはマイノリティであって、マジョリティでは無く、つまり一般的では無いと思う。

 

だから、大抵の場合、自分の同一性が保たれていると思う。自分が男なのか女なのか、男が好きか女が好きかということは割合ハッキリしている人が多いんじゃないかと思う。

 

マイノリティに生まれると環境的にも混乱することが多いだろうが。その場合でも「違和感を常に感じ続けて来た」みたいな。

 

だから、そうでも無い、男なのか女なのか、男が好きか女が好きか流動しているという人は、そういう風に生まれついたマイノリティだろう。多数派は恐らく違う。

 

まぁ、その人はそういう区別をしたら良いと思う。性同一性障害の場合、自分は頭と身体で性が違うんだなー、という区別をしたら良いわけで。

 

例外、という区別ね…。私も例外だ、と自覚しなきゃならないわけだけれども。「除外」されるわけですよ。一般的な話から(苦笑)

 

今まで普通になれと頑張らされてきた私が(>_<)

「お前普通じゃ無いから」と…(/・ω・)/

その意識の転換って結構難しいな、と。

 

 メンズショップだと思って入ったのにレディースだったみたいな。

 ここにあるもの全部、あなた用じゃないですよ、と言われてるみたいな。衝撃を受ける(>_<)

 

全部、私でない私の話なんだ、と思っていた物語が、最早、私とは何の関係も無い宇宙人の話だったんだ…という(>_<)

 

参考にしようとしていた私は一体。

豆しばは教えてくれなかったょ…。

 

まぁ、勿論、そういう「普通だと信じている私」が物語中には混じっているわけなので、参考になる話も中にはあるんですけどね。

 

ただ私の自尊心では「人間だと思っていたら一匹の蟲でした」という感じ…。グレゴールザムザ(>_<)

 

性同一性障害が人生の半分を異性として生きて来た時間を無駄だと感じるなら、やはり私も健常者として生きて来た殆どの時間を無駄だと感じるだろう。

 

英語喋れるように頑張ったのに、その後の人生で一度も使わなかった…みたいな(´・ω・`)…で逆に日本語の練習はしていない。

 

そういう喪失感だな…。