LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

生きる意味

英雄願望とか大成したいとか成功したいとか夢を思い描いて、それに向かって行くのが人生だなんて思っていたことがあって、だからこそ、何かしなくては なんて思っていた時期があった。時間は止まってくれなくて、漠然とした将来は漠然としたままで近づいて。

少年老い易く学成り難し とは真理だと思う。まぁ、相変わらず奇特な僕のような人間の台詞では無いのだけれど。

大人はもっと勉強しておけば良かったなんていうけれど、僕に言わせればそんな未来なんて十回巡っても訪れ無かったと思う。何某かの目標が無ければ、勉強しようがしまいが特に掴めるものなんて無いだろうと思う。単に仕事の質や待遇が変わるだけ。そこに遣り甲斐や意味や価値やらの輝かしい何かがあるかと言うと、あまり変わらないんじゃなかろうか。

幸福感というのは、年収にしたがってある程度で打ち切りになるという統計がある。つまり、

1腐る程金があっても人生の幸福には無関係だ

2ある程度のお金は幸福に必要だ

という話である。だから、ワーキングプアや過重労働などの労災に見舞われなければ、幸福の社会的条件はクリアしていると思う。それは普通の人が普通の努力である程度の運があれば達成できる目標だろうと思うのだ。もっと勉強しておけば~というのは、実のところ自分の資質では得られない隣の芝的なものを指して、勉強するだけで得られたはずだ、という妄言だと僕は想像する。

会社に入って適当に出世、それなりの子と恋愛結婚、普通の子を産んで愛して育てて、平凡な幸福、孫が生まれて~なんてのを普通の幸福と定義するから比較して手に入らない自分は不幸だと思う?

一億総中流なんて言われていた頃の この手の普通という価値観は若しかすると今は流石に廃れているのかもしれないけれど、結婚=幸せ、独身=負け犬=不幸、みたいな構図はまだ割と根深い気がする。

また、仕事や趣味に遣り甲斐や生き甲斐を求めて、それが無いことが不幸だと嘆き、何のために私は生きているのだろうと空虚に感じることもあるのかもしれない。けれど僕は思うけれど、生き甲斐や遣り甲斐なんてものはそうそう落ちていやしない。そういうものは結局のところ得られることが当然のものではなく出会いの運なのだと思う。それにしても途中でそれが失われるかもしれないのだし。

僕が運命論者なのは否定できない。

脳がイカれて生まれてくるのも、不細工に生まれてくるのも、病弱に生まれてくるのも、他人と擦れ違いまくるスキル持ちなのも、虐められて心が死ぬのも、結局は運だと思う。学生の頃、必死で何かに打ち込んでいたのも、その癖、落ちぶれて生きているのも、あるいはその逆転劇も結局はそういう運なのだと思う。頑張ろうと思えることすら、結局はその時々の運気次第だと僕は思う。

僕は人生というものは人間万事塞翁が馬だと思う。僕自身が生まれながらにして、自分ではどうしようもない幾つかの欠陥を抱えていた出来損ないだった事実もあるし、人生は不平等で、ある程度なるようにしかならない部分があるように思うのだ。

僕は巻き込まれていないけれど、テロや自然災害なんかで否応なしに殺された無数の人々の運命なんかを考えると、力が抜ける。人命に価値を持たせているのは、それがある程度頑丈な理屈に支えられているという前提が幻想としてあるからで、ゴミ屑のように力の前に消し去られてしまうと僕らは依拠したい現実(という幻想)を暴かれる気がする。この人間社会の現実という虚構の上に自分のモラルを支えようとしても、運が悪ければ足元を掬われる。

僕は元から運が悪いので、そこに依拠することが出来たことなんて無い。だから、能力主義的な資本主義社会の権力的現実に付いていけないし、最終的に諦めた。普通の人基準のその社会に付いていける能力なんて僕には無い。その社会的な幸福は勿論叶わない。だから、その幻想の中で描かれる幸福という夢を願っても僕にとってその行為と手が届かない故の落胆を感じることは無駄で無意味だと僕は思う。

この社会は自然の上に人工的な秩序を乗せて出来上がっているのだから、それが人為的で不自然なものになってしまうのは当然だ。だから、この社会にはどう足掻いても僕らが満足し得る真理なんて無い。

頑張って成功する的な価値観が否定されて、それなりに生活出来れば良いやみたいな緩い思想が膨れて来たのは当然だと思う。人間の大半は凡俗なのだから、基本頑張りたくなんて無い。みんなが夢や野心を持っているなんてことは政治的要望だと思う。大抵の人は夢も野心も無い安心安全に生きられればそれなりに満足できる普通の人たちじゃないかと思う。

それを経営者的な人たちが俺様は偉い、なぜ俺たちのようにならないのか理解できない、というように語り、自分たちが正義だと述べるのはおかしいわけで・・・。リーダーシップを取りたい人は奇特で少数派だと僕は思う。社会構造的に人を使った方が得だというような話は頭ではみんな理解できても背負いこみたくないと思っており、人の下で働いていた方が責任も無いし気楽じゃね、とか思うのが大半だろう。理性を働かせて合理的に動けて、責任を負えて、人を使って立ち回れる頭の良い人間は少数派だと僕は思う。第一に平穏を望む人間には、やろうという気にならない。面倒だから。そこまでして成功するのは気苦労が多そう。

にも拘らず、想像力やイマジネーションを働かせて新しいものを作り出すことが、機械には出来ないからこそ人間的で正しい仕事だと言われるのは僕はそりゃねーわ、と思う。そもそも僕の能力値に想像力なんてものは欠けているとの医学的なお墨付きでもあるわけだし、大抵の人はクリエイターじゃないじゃん・・・みたいな。想像する人間=人間らしいなんてのは社会を発展させるのに都合が良いというだけの後付の理屈。人間の大半は創造者じゃないし凡俗で消費者だ。機械に仕事を奪われる現実があったとしても、だからと言って、機械に出来ない仕事が人間らしい仕事だというのは、阿保らしい。そんなものは否だろう。

単に人類に寄与する部分が大きそうなだけで、望まない。何かを作り出すことが至上価値みたいな価値観は、神経症的だと思う。生涯学習とかも大概だ。そういう賢いことが正義みたいな方向性はぶん投げた方が良いようにさえ思われる。

僕は特に記憶力が悪いので勉強しても使わないものは次々忘れていく。使わない知識に殆ど意味は無い。頭の体操みたいなレベルで、何かしらの呼び水に対して、そんなこともあったっけなと引っかかる程度である。英語をぶち込んでも大抵の人は使わないから忘れて無意味に帰す。その手の結局は用いない努力をしても無価値だとは言わないが僕は大きな意味をそこに感じないし、その努力は特に義務教育以降は別のところに振り分けた方がいいんじゃないか、と思う。

博覧強記の人なら雑学を詰め込んでも意味はあるのだろうが、僕のような脳の記憶機能が弱い輩に端から知識を詰め込んでも90%以上零れ落ちるだけだ。知識というのは僕の場合、維持にさえコストが掛かる。使わないものはどんどん零れ落ちていく。長年使っていた知識は沈着してある程度再利用が利くけれど、やっぱりそれらも基本的には取捨選択しておくべき道具だなどと僕は思う。

元来、普通に生きる分には多くの知識など僕らには必要無い。だから一生を通じて、どれだけ知識を詰め込めるのかに心血を注ぐような行為は愚かしい。とは言え、見聞を広げること自体は愚かだとは思わない。考えて糧とするための知識なら意味はあるだろう。術理の無い技に効果は伴わないみたいなヤツだが何と言ったか・・・。筋トレだって意識しないと効果が低くなるのだし、知識も何をしてるんだかちゃんと意識してないと非効率なんだろう。

別に僕としては人生の時間が有限だからどうのと説く気は無いのだけれど、例えば、ダイエットに成功しても、それで終わりにしてリバウンドしたら努力は水泡に帰すし、筋トレにしても筋トレを止めてしまえばやはり筋肉は衰えて水泡に帰すわけである。知識もまた使わない知識に出番が回ってくることは殆ど無い。それらもやはり完全に無意味だとは言わないけれど、何かしら目的があるなら兎も角、無目的に闇雲にやっても殆ど意味は無いと思う。

まぁ、生きていること自体を無意味に感じている僕からすれば目的を持って生きることを推奨する気も無いし、四六時中ワレワレハウチュウジンダとか口ずさんでいても、それが人に迷惑をかけない行為なら問題ないと思う。けれど本人が幸福(結果)を求めてそういうことをしているのだ、というなら、それって効果あるの?と指摘したいところだ。

幸福を求めて、宇宙人だー、と言っている輩よりは、無意味に、宇宙人だー、と言っている輩の方が良いと思う。それは、幸福を求めて愚痴を言っている人と変わらないと思うからだ。特に求めてないのなら別に構わないと思うが、幸福になるための行為として、あるいは代償行為として、そういうことをしているのなら単に無意味であるだけでなく、不幸の糧になるとさえ思う。

それは自分の不幸を確認する行為のように思われるから。不幸な過去を思い出してリフレインすると脳はそれを繰り返し再生して疑似体験を重ねる。トラウマは重複して自分を突き落していく。繰り返される負の体験。そういう行為を自傷と呼ぶ。刃で身体を傷つけるように、言葉で心を痛め付ける。

不幸な体験は忘れた方が良いと僕は思う。僕は軟弱者なので、全てが弱さのせいで強くなってそれを乗り越えられるとかは思わない。大学の先生には克服座右の銘みたいに推奨している方がいたが、みんながみんな、あなたのように強くはなれませんよー、と僕は言う。僕はハッキリ言って克服という言葉が嫌いだ。僕的には乗り越えたとか言ってる時点でその経験に囚われてるのね・・とか思う。

弱いままで生きていられるならその方が楽だと思う。僕にとっての対人能力なんかは発達障害者がその克服を推奨されるものだが、僕は無理だと思う。例えば、僕は左利きで右利き用の道具を使わされて来たわけだが、どんなに練習しても違和感が拭えることはない。勿論、それなりに上手くは出来るのだが、どれだけ練習しても人並み以上にはならず、違和感に晒される。

そういうコレじゃない感に常時さらされることに僕は耐えられないと思う。だから、今のところ対人能力をどうにか克服しようとかいう話は僕は遠慮している。それはサイズの合わない靴を履くようなものだと思う。人との付き合いで得られる体験は得難いものだが、同時に僕の資質のせいで離れていく関係に耐えることは僕には辛く思える。人付き合いは人間にとって天国と地獄だと言う心理学者がいたが、僕にとっては概ね地獄である。例えてみれば、飛んで火にいる夏の虫なのだ。魅力的に見えるその場に飛んで行ったは良いものの、この身を焼き尽くされる。

余談だが僕は寿司が食べられない。けれど、美味しそうには見える。だから、今度こそはと思って手を伸ばすのだが、食べてみると、やはり気分が悪くなってしまい残してしまうことになる。僕にとって人間関係というのはそういう感じだ。

だから、避けて生きられるなら、それで良いんじゃないかな、と思う。世界の食べ物が寿司だけになったとしたら、僕は痩せられるだろう。人間関係は割とその悪夢に近く、殆ど避けられないので当然の如く僕は死にかけているというわけだが。

僕は正直、人間が嫌いではないが、近づきたいとは思わない。寿司が嫌いではないが、食べたいとは思わないのと同様である。それは嫌いなのかもしれないが、別に憎んだり悪感情を抱いたりしているわけでは無い。ただ直接交わることは時分には辛いと思うだけ。

僕は正直、夢や希望という言葉が嫌いだ。自分がどうしたいか、どうなりたいかと問われるのも嫌いだ。夢?希望?意味が分からない。僕はどちらも持っていない。けれど、人生のあらゆるシーンでそれらを問われて来た。僕は建前を使ってみたこともあるけれど、最近はそれに疲れたので、そんなものはありませんと答えている。

僕には昔から嫌いなものばかりあるが好きなものなんて殆ど無かった。それが僕にとっての真実だ。他人と相容れないから夢も希望も無い。承認欲求を僕は満たすことは出来ない。なら僕の希望なんて、出来るなら一息に寝首を掻いて安楽死させてくれるとか・・・。いや、別に積極的に死にたいというわけじゃないのだけれどね。誰とも関わらず会わず適当に生きていたいだけで、割とそれが難しいだけ。

それもそれで退屈で寂しいものなのだが。なれば犬や猫の一匹くらい飼いたいところだが、飼い続けられるだけの甲斐性さえ僕には無いのだと自覚してもいる。こんな飼い主では犬猫も不幸だろう、と。だから飼うことはない。ではAIBOで我慢しようか?まぁ、それこそ惨めというものだろう。だから、僕は孤独をやむを得ず享受する。

夢も希望も思うに人有りきなのだ、と僕は思う。それらは承認欲求を満たすための手段なんじゃないか、と。誰かに示すことで自分を認めて貰いたい、その手の願望を具体化する過程で自分の趣向にあうと思えるそれが、夢やら希望やらなのではないだろうか。

だから、そもそも他人に触れたくないという僕には、そんなものは無い。別に夢や希望が無くても生きて行けると思う。何やらキラキラしていて幸せにはそれが必要なのだとまことしやかに囁かれているという印象を僕は持っている。けれど正直、それは大抵の人にとって漠然としているのではないかと思う。僕的にはUMAみたいなものだが・・。UFOとかネッシーくらい僕には発見し辛いと思う。

それらは自己実現という類なのかもしれないが、僕はその境地に至れる気はしない。自己実現?何それ美味しいの?と。近代人に対するインディアンの如く文明化されていない地域の人間みたいなもので、僕と自己実現という概念の間を埋めるには、何度かのパラダイムシフトを越える必要性があると思う。それを越えるためには大凡7、80年という寿命は短すぎるんじゃないだろうか。発達障害を患う幾人かの著者は対人交渉を諦めずに頑張っているようだが、僕にはその努力が悲壮に見えて、正直追随する気になれないのだ。彼らは諦めるな私に続けと主張しているようだが、僕には負け戦に見える。したがって、僕は敵前逃亡するわけだが、敵前逃亡は銃殺刑なのである。

要するに、それはそれであれなのだ。前門の虎、後門の狼?まぁ、虎より狼の方がマシだろう。僕は犬より猫派だが、虎より狼派だ。正面突破は多くの傷を負う羽目になり、銃殺刑は一撃死なら後者の方がマシだろう。より苦痛が少ない方を選ぶ。そういう処世術で生きてきた僕に希望や夢なんて問われてもな・・・。

普通の人は、ここで書くようなことは、取るに足らないことで自分なりに飲み込んで、それで適当に四捨五入して笑えるはずだ、と僕は思うのだけれど、僕の脳の構造はそういう風に出来ていない残念クオリティなのだ。だから、呑み込めずに馬鹿正直のストレートに考えざるを得ない。夢とか希望とか普通の人はもっと適当に受け止めて考えるだろうな、と僕は考える。が、一方で僕はそのようには考えられない人だ。

少なくとも推理できるなら、じゃあ、普通の人のように考えればいいじゃん?って。それが無理なのが僕の苦難なのだ。あの人みたいになりたい!と思って、じゃあなればいいじゃん!そうだね!って、それは安請け合いと言うものだ。彼は彼、私は私。所詮、なりたくてもなれないものさ・・。人間にえら呼吸しろ、と言っているようなものだ。

ダウン症児が遺伝子が違うんだから人間じゃ無いと言われてしまうように、僕もじゃあ人間じゃ無いわと思う。お前の血は何色だー!って言われて、赤色だー!って答えられる自信は無いなぁ。いや、ま採血したらちゃんと赤かったけどもさ・・。

障がい者採用とかさ、20人とかの従業員の中で一人だけ障害者とか、それ何の虐めなの?って感じ。平等にするため?居場所を作るため?うーん。女性の社会進出とかね。なんというか、比率的に明らかにおかしい場合、女子高に男一人だけ入学する気分だよね。特に日本人は排他的な訳で。そういう人のいたたまれない気持ちとか考慮せずに居場所があるからいいでしょ?って感じなんだよね。いや、それって座席があるだけ、だよね。

異民族を国の中に入れるとさ、大抵、異民族同士のコミュニティが出来て集まっちゃうんだよ。それは結局、平等で対等な関係じゃないからだと思うんだよね。それと同じで僕と普通の人との間に対等の関係なんて成り立たないんだと僕は思っている。それが勝手な思い込みだとしても、そう感じている。最初こそ日本人?は歓迎したフリをするけどさ、段々面倒臭くなってくるんだよね。で扱いが適当になってくると同じもの同士(気が合うもの同士)で集まり出して、お前とは合わないからあっちいけみたいになるんだよ。僕が合うわけないじゃん?生まれながらに。僕は日本人の親切心は期間限定だと思っている。結局、お互いに関係が重苦しくて耐え難いものに感じて来て、態度に現れるんだよ。日本人は和を重んじる民族だからさ。和を乱す僕のような異分子には厳しいのさ。良くて無視、悪くて虐め。同情・憐憫。そういうの要らないんだよね。苦痛だから。

僕がどれだけ努力しても、そういう面倒な感情を押し付けられることになる。あるいは緩衝材として利用されるとかね。僕に近付いてくる人間は碌なヤツじゃない。自分から近づくしかない。人を見る目のあるヤツは僕と付き合うメリットが無いから離れていく。あれ?ダメじゃん。友人は選びましょう?そうですね。先生。でもね。相手にも選ぶ権利があるんだよね。僕は僕を選びませんよ。話が微妙に通じないし。要領悪いし、面倒臭いから。

僕は多分、善人ですが、コミュ症の欠陥品の無能ですので。じゃあ、ただの善人の有能な子を選ぶじゃん?ダメじゃん。じゃあ誰がお友達になってくれるのさ、って言って、何か宗教っぽい人たちが功徳を積むために~とかさ。そんなの嫌じゃん。僕が遠慮するわ。僕は面倒臭い人で、同情されるのとか嫌なんだよね。同情して友人でいてくれる・・とか何それ。帰れよ!余計なお世話なんですけど?って思う。

同族じゃ話が通じないし、普通の人じゃ僕に話が通じないしね。対等な関係?無理でしょ。地味に構造的に詰んでる気がするんですよね。

ま、僕は普通の人のフリなんて無理だと思うんだよね。ペルソナとかかぶれないんだよね。大根だから。そりゃ最初の頃は上手くいくかもしれないけどね。まぁ、後は針のムシロを延々歩くような生き方だと思う。そんなの無理だわ。

ふぅ。まぁ、僕のことは良いんだ。言いたいのは、結局、人間には・・というか生物自体にそれぞれ分というものがあるんだろう、ということさ。分を弁えたまえ!みたいなね。分っていうのは、その人の運命における可塑性の部分だよね。その人の人生の可能性の広さは無限大なんかじゃなくて、初期の時点から有限。ウィザードリィでキャラメイクするみたいに、天然のダイスが振られていて、僕みたいに障害を負って生まれてくることもある。

僕が言えた話じゃないんだろうけど、そういう分を弁えて、彼らの言う普通の幸せとか自分にゃ無理だわ。みたいに開き直った方がいいんじゃないかな。自分の手がどこまで届くのか冷静に測った上で、このくらいの人生かなー、って思って生きてた方が幸せに生きられるんじゃなかろうか。

上も下も見ると限が無いけどさ、自分だけ見れば、それなりに限(きり)ってあると思うんだよね。僕なんて大抵のものには手が届きそうもないんだよね。寿司を美味しく頂くとかさ、夢物語だよね。人生の半分損してるとかよく言われたものだよ。そうだとしても一生無理だと思うけどね。他人と長電話に興じるとかね。何話してるか分かんないもんね。ホント、僕とか死ねば良いのに。あ~いつ死ぬんだろうね。僕は。

若者は正直、大志とか持たなくて良いと思うんだ。そういうの持つ人は一部の特殊な人だと思うから。それなりに自分にとって無難で良さそうな進路に進めば良いと思う。僕はそもそも生まれから脱線していて無理だったけどね。けど、普通の社会のレールに乗れてる人は、そのレールを進んでりゃ良いと思うのさ。敷かれたレールとかねーわ、とか言う跳ねっ返りは置いておいて。公務員になりたいわーとかいう安全志向は普通の感性で全く間違ってないと思うんだよね。

経営に進むのはやはり少数派だと思うし。企業しろって煽っても馬鹿な子が混乱するだけだと思う。それこそ夢とか希望とかもね。それらの言葉の氾濫につきましては私は一言、死ねば?って思います。

平和な世の中ならとりあえず素直に右に倣えしとけば良いと思うな。どうせ人間なんて大半が凡俗ばかりなんだし。騙される時は大半が騙されるわけで。一般人は正直に善人プレイしときゃ良いと僕は思うんだよね。あまりアクロバティックなプレイはお勧めしない。良くて黒歴史、下手すると社会的に死ぬ。安全マージンとって生きるのが堅実だよ。政治的には死屍累々でも一人の天才を生み出したいのか知らないけど。

それでも頭角を現すヤツは、上に行くと思うんだよね。ダメな子はダメだし。努力がどうこうというのではなくてね。努力も含めてそれは環境の問題だから。だからこそ、ある程度そういう水準を上げることは出来ても、元の適性は上げられない。まぁ適正云々はコーディネーターよろしく遺伝子でも弄れば良いと思うけどね。出来るなら。

僕みたいなヤツは余程運に恵まれないと殆どまともに社会じゃ生き残れない類だと思う。過去に犯罪を犯した発達障害の子が社会に受け皿が無いからって理由で服役させられてたけど。その裁判官的には僕らの受け皿ってのは少ないんだって考えなんでしょう。僕も社会の受け皿っぽいものを見たことないし。セーフティネットくらいだなぁ・・。それって社会的弱者用っていうザックリした括りであって僕ら用じゃないよね・・・っていう。勉強会に行こうにも電話が混み合ってて通じないしさ・・・。窓口らしきものが見た目あっても、そこに実際にはアクセスできないって酷いよね。

誰しも何か一つ才能がある、とか嘘だと思うんだ。そんな平等なわけないじゃん?社会はこんなにも暖かいんだよ?と子供に信じさせるための出鱈目ですよね。ルルーシュで皇帝が言ってたけど、社会は不平等で理不尽なんですよ。恵まれて生まれてきた子も何時不幸に落とされるか分からないという・・・。交通事故に遭うことを恐れて居ては生きられません、ということで無視してるだけ・・というのが本音だよね。ついでに言うと、普通の人は無視できるんだけど、時々、無視できない人もいるんです。僕とか。

世界の不平等さと理不尽さを説明してみると、下は生まれた時点でHP0とかだよね。よーし、これからのし上がるぜ、えっ、嘘だろ、HP0?オレもう死んでるじゃん!?みたいな。まぁ、無意味過ぎてスルーされるんだけど。自我とかまだ無いからノーカンで!というね。はぁ、そうですか・・。魂とかあるなら強制送還だよね。玄関から出て即帰宅みたいな。

豚とか牛とかなら生まれながらに食肉加工が決定されてるとか・・。美味しく食べてあげるからね、だと?うん、世界を呪うね。まぁ、どれだけ大量殺戮されてても食肉加工された豚や牛の怨霊話とか聞かないけど。

人間に生まれたからと言って勝ち組ってわけじゃないよね。僕は公園の鴨とかの方が勝ち組だと思うし。まぁ、人間の話に限定しようか。とりあえず鴨よりは幸せになりたいな。・・・あぁ、無理かもしれない。ウソみたいだろ?万物の霊長なんだぜ。これで・・・。とか笑っちゃうよねー。ブラックジョークだと思うわ。クマムシ辺りに返上したいと思います。

僕の価値観の根幹って、今はニヒリズムです。ニヒリズムの前は悲観主義だった。1999年に地球滅びれば良かったのに・・・みたいな。まぁ、ちょっと怖かったんだけど。要するにニヒリズムってのは、あらゆるものに価値を置かないんだと思うんだけど。同時に世界は計算しきれるとも思っている。物理現象が全てだと思うし、ただ人の価値観の善悪ではそれが測れないという立場。だから、人間万事塞翁が馬とか、運命論者とか言ってるわけだけれども。

サイコメトラーエイジに全ての現象は計算しきれるって天才児が出てるんだけど、そういうことも無限の計算能力があれば出来得るかもしれない。

全部無意味だから虚無だから何をやっても意味ないし、何をやっても良いんだよ、とか主張するわけではない。僕的には中庸が良いかなと思うんだけどね。まぁ、僕自身のステータスが偏ってるせいで中庸とか無理なんですが。何事も程々が良いと思いつつ。ま、まぁ理想だしね・・。

生きてる意味とか無いわー、とかは思うけど。けどね、生と死は本能の欲求だと思ってる。承認欲求や、食欲・睡眠欲・性欲とかね。寂しさとか。そういう渇欲が人間に生きる上での指針を与えている。だからニヒリズム的世界観でも、生きる意味が無くても、この世が虚無でも、人間は生きていこうと思うだろう。同時に自殺する者が現れるのは生と同時に死への欲求もまた真だから。例えば、生きることが苦痛で苦痛で仕方がないのならば、苦痛から逃れるために死を選ぼうかという欲求は生まれる。これは他の動物でも有り得るようだし。生きることは欲求の結果であって、ならば死ぬことも欲求の結果に他ならない。

人間は欲望という意志に動かされているのであって、生きようという意志がそもそもあるわけではないと思う。食べたい・寝たい・sexしたい・楽しみたい、別に死ぬ気は起きないし、じゃあ、生きてるか・・・みたいな。僕的にはそういうものだと思う。溺れる者は藁をもつかむみたいに生きたいと望んでいるようなこともあるけれど、それは大体、苦痛や恐怖から逃れたいという感じのような気もする。興奮して、その結果として「生きてる!」と実感しているのかどうかは僕には良く分からない。だから、生きたいと望めるのかどうか僕には分からない。死ぬのは嫌だという意味において生きたいと言うのは理解できるのだが。

死は恐怖だからさ。生が恐怖になれば死にたくなるけど。

自爆テロを敢行する若者の気持ちとか、ジハードで死ぬと無駄死にじゃない・・・的な。ああいう地域では生きること自体が厳しく、だから生から逃げ出して死ぬことで自分は今よりマシな状況にシフトできるかもしれない。そういう気持ちから他人を巻き込んで死んだりする・・・と僕は理解しているのだけれど。

まぁ、自爆しようと何をしようと構わないのだが、キリスト教も同じで死後に天国に行けるという特典があって信仰してるんでしょ?っていう理解をしている。現世で良い行いをすれば天国に行けるんじゃ無かったっけ。そういうメリットがあるから良い子にしてるか・・・みたいな。

結局、生とか死とかどうでも良くて、良い目が見たいだけじゃん・・・みたいな。僕はニヒリズムと快楽主義者なんだけど(苦笑)基本的に人間はどうしたら自分が一番気持ちよくなれるかを考えている・・と僕は思う。生は無意味だからね。だから、人間は快感を求める。要するに欲求の追及。気持ちよく過ごすことも含まれる。日本人が和を求めるのも、清潔好きなのも気分よく過ごすためだと思うのだけど。気分が良い=快楽だと思う。勿論、基本的欲求を満たすこともそうだけどね。

幸福の条件は、それこそ欲求を満たすこととイコールなのだから、人間は快楽主義を自称しているのだと僕は思う。あらゆる人間が幸福を追求したいと願っているわけだからね。だから、人間が考えることなんて最終的には欲望を満たしたい満たしたい満たしたい・・・エンドレス。理性(忍耐)的じゃ無い人は特にね。僕とか。

承認欲求を満たすことでWINWINに欲求を解消できるのかもしれないが、僕には無理だし。そういう人に都合の良い捌け口は性だったりね。麻薬だったり、タバコだったり、酒だったり、女だったり、食べものだったり、賭博だったり・・・?まぁ、何れにせよ自分にとって気持ちがいいことね。もっと、気持ちよくなりたい!という気持ちが高じて、馬鹿みたいなことになったりする。渇欲だからね。もっと、もっと、と思うと限が無い。

とは言え、人間の生きる動機の部分の限はその辺だと思う。欲望が無くなれば本当に生きる意味はなくなる。と同時に、生きる意味というのは欲望それ自体だとも言える。要は、死ぬほどじゃないという理由でもある。

だから、僕的には死ぬほどでもないならどうであれ生きてたらいいんじゃね?と思う。それが生きる理由。生きてる意味。生きる意味?死ぬほどでもなさそうだから・・・生きてる。終わり。

人間にとっての幸せは欲求を満たせた時、欲求とは渇欲。渇いてしまう。渇かない欲望なんてない。だから、欲望を散発的に満たし続けることが生きて幸せを実感する日々ということだとも言えるかもしれない。まぁ、幸福も不幸も一時的な状態に過ぎないとは思っている。

解体するとそんな感じだし、テンプレ的な具体的な幸せ(結婚、子供、自己実現)とかは別に必須じゃないんじゃね?と僕は思う。思いたいだけかもしれないけどね。叶わないから。常に幸せな状態なんてあり得ないし。同時に常に不幸な状態もまたあり得ない。まぁ鬱病とか色々あるにはあるけどね。

その辺の仕組みを考えて自分の分を考えた時に、どういうバランスで生きるのが好ましいかと考えれば他人と比較することは無いんじゃないかなーなんて〆てみようか。負け惜しみじゃない!