いつまで経っても世の中の人間は賢くならないもんだなぁ…と自分を顧みず思ったり。
「逆襲のシャア」でシャアが言ってたのは、多分そんな感じのことなんだろう。
ダーウィン賞とか見ると不謹慎にも笑えるわけであるけれども。
まぁ、それが何故かと言えば、人が生まれては死にを繰り返すからだろうという訳で。
生まれて来る子供は(≒)0からのスタートだから、私が犯して改めた過ちも、
その子はこれから犯さなきゃならなかったりするんだろう。
軽い過ちを犯したり、他人を反面教師にしたりしながら、規律を学んでいく訳で。
やはり中には過ちが軽く済まない人も出てくるんだろう。人によっては運が悪くて、
あっけなく堕ちてったりするんだろう。
死ぬというリセットをかけて賢さは0に戻るというループを…
人類という全体で見れば、
それを何度も繰り返すだけだから、
そうそう人が賢くなったりなどはしないのだろう。
義務教育は無難に生きる方法を教えてはいないので、勿論、その方法を蓄積しない。
だから、教師も親も大抵、誰も知らないのである。
蓄積されないから過去に学べることも少なくとも一般的にそういう機会はなかったりと、そういう印象を持つ。
多分、それらは普及していないだけで存在はしているんだろうけれど、
単に身分差などの格差を隠して維持するための暗黙のもの…って気がしたりする。
まぁ、正直私は他人の生活の質がどのくらいの層に分別できるかなんて知らないけれども。
要は奴隷・平民・貴族・王族とか、あるいは文化、あるいは職業…etcによって生活レベルの差が色々生じていて、
その中での常識や良識による教育が、その人に与える常識になるんだと思う。
要はアルターネイティブみたいなもので。
第一言語(母語)みたいに自然と身に付いているものなんじゃないかな、と。
それが世界の見方であり、処世術を決める素の人生観みたいなものを基礎付けるのではなかろうか…。
それを肯定するにせよ反発するにせよ。
そういう中で色々と悪いものを取り込んでしまう人が出て来て、
その人の人生観から来る生き方、取捨選択の仕方をしていたら結果的に交通事故に遭わざるを得なかったみたいな感じに、
個々人の人格と行為の結果とがリンクしてくるんじゃないのかなーと思ったりするわけです。タバコを吸うと癌になりやすいとか、確率が上がったりする。
私は自由意志や責任という概念は便宜的なものに過ぎないと考えてます。
自由意志や責任なんてものは純粋には存在しようが無い、と。それはどこまでいっても仮定としての概念だと思う。
ただ私と他人を区別するには、その仮定を置くことが便利だということで、意志や責任の所在を問うのだと思う。
何が言いたいかというと、私は運命論者なので、生まれ育った環境がその人の人格を決定づけるということと、ならば、その人に自由意志も個人責任も無く、それは「環境のせい」→「運命のせい」と言った方が正しいが、正しいだけで何の用に立てることもできない、という話なわけで。普通はこういう話は無意味なので、する価値もないと言われるのだろうという話で。
けれど、私が思うのは、前提として、こういう「どうしようもない実態」があるということを一々確認しないと忘れてしまって、忘れてしまうことは良く無いのではないか、ということだったりする。人間社会(秩序)の裏地は混沌だということを、である。
差別しない状態…フラットなことが正しいと社会は言いたげだが、私たちはそれは現実じゃないことを知っている。差別的な現実が下地であり、そこに差別してはいけない、という眼鏡を掛けさせられているだけだ、という話で。そして、その眼鏡的なものが人間的なものだから自由が効くと考えるのであって、有意だと思う訳である。
裏地は無意味で表が有意だから、裏地のことは忘れて表だけを見ようとする。表だけが意味を持っていて、裏なんて無いという風に行ってしまうことを、裏地を忘れてるよね、と私はいう。例え私の手の届かない問題であっても、その裏地はあるってこと自体は忘れてはいけないと思う訳で。
最近…なのか、努力は意味が無い。全ては生まれながらにして決まっている。と言って、表側を否定するって寸法が出てくる訳だけれど、それもまた先ほどの話の逆を言っているだけで間違いなんだと私は思う訳で。要は下流家庭に生まれたから努力しても無意味という人。それは言ってることは実は努力至上主義の人と本質的には同じだという話で。
論理学的には表も裏も同じであったはず…。適当だけども。
だから、その地面を確かめる的なことを忘れて種をまいても意味ないよね、と私は考えたりしてみるわけで。
まぁ、そういう話を誰かにしても分かって貰えないんだろうなーとも思ったり。どうでもいいじゃん、みたいな。
宇宙の裏側には何があるの?っていう時に、そんなこと考えても無駄だよ、って言われるみたいな。
私は無駄では無いと思うんだけど「現実的な人」はそういう話を切り捨てるのかな、って思ったりするんですよね。
その「現実的」っていうのは写実的な「現実」というよりも、人間社会的都合に基づく「現実」だと思うんですね。
後者の「現実」ってやつは人間の手におえない問題は「無い」ことにして、手におえることだけを見えることにしちゃう気がするんですけど、私はそれは違うんじゃないかな…と思うという話ですよね。
けど、その裏地の話ってのは、どこまでも「どうしようもなさげ」な話が続くので、みんな見限ってどっか行っちゃう的な。そんなこと言ってもどうしようもないじゃん。なんでそんな話するわけ?なんか意味あるの?って感じに制圧されちゃう。
けど、じゃあ、見限って、無いことにする…ってことをすると、私たちの根本的にどうしようもない部分をみないことに繋がるので、そういう部分があるってこと自体を忘れちゃうんですよね。結局、(どうしようもない)他人に同情したりすることが難しくなるんじゃないかなーと思ったりする訳です。
こう…「空綺麗…」とか言ってると「暇じゃない?」「意味なくない?」って煽られる的な…。空とか見てても無意味じゃね?馬鹿なの?みたいなね。それは、極論、その人が「空」ってものを無意味で見る価値も無いものと切り捨てちゃってるんじゃないのかなーと思ったりするわけです。
空を見れば天気が分かるかもしれないでしょ。っていう意味があることに繋げたい訳じゃ無くて、空を見てホッと一息吐いてるだけなんですけど、それが何でイケないことみたいに一々意味を問われて(暗に意味が無いと非難されて)指図されなきゃならないわけ?っていう。
確かに意味の無い行動なのかもしれないけれど、理解できない訳じゃないと思うんですよね。理解は出来るけど意味が無いような気がするだけで。そういうのもあるんだと認められると良いかなぁ、と思ったり。
余韻とか行間とかゼロとか間とか何かそういう「無いんだけどある」的な観念ってありますよね。デジタルというよりアナログ的な。デジタルではコンマは測らないけど、アナログには感じられる部分的な。そういうものがあるっていう感覚は結構大切なんじゃないかなーと思ったりする訳で。