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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

他者への想像力

特異な体験世界にいるものは、それが生来の当たり前の世界なので、外からその特異さを指摘されない限り気づかないのだ。『発達障害のいま』杉山登志郎

健常者は「健常者とはどういったものですか?」と問われて答えられるだろうか。プラトンが「勇気とは何か?」と勇気のある武人に聞いたが武人は答えられない。それが「生来の当たり前の世界」だからである。

発達障害者は「あなたにはどういう障害があるのですか?」と問われても、上手く答えられないのである。この手の質問は実にストレスを感じる。曖昧な質問に答えを返せない、というのも障害の特性である。相手の出口を塞ぐような会話の追い詰め方は暴力的だという認識が未だ少ないのは遺憾だ。正論が暴力だという考え方が『カウボーイビバップ』にあって、腑に落ちないところがあったのだけれど、こういうことである。

凄く簡単に言えば、馬鹿やデブやブスに「馬鹿」「デブ」「ブス」と正論を言うのは正しいだろう。では私たちはそれを推奨するだろうか?という話である。じゃあ、なぜその正論は非難されるのだろう。直感的に分かり難く一面的に正しいなら完全な正当性があるような気がして、こうした暴力的な正論を伝家の宝刀のようにこれ見よがしに振り翳す人が多い。けれど、彼らは対人関係における配慮に欠けると判断されるだろう。

要は相手を論破し、自分が言い負けないということに妙に拘る場合、そうなるわけである…。男性の脳と女性の脳というのがあるが、男性の脳に多い性質である。発達障害者もこの手の性質が強い場合が多い。理屈へのこだわりが、そのまま自尊心を防衛するための闘争に繋がっている。何かしらの専門家もこうしたプライドを持ちやすいが、そんなことで一々、戦争を吹っ掛けるのは幼稚である。所謂、大人が我々の精神の未成熟と成熟とを分けると考えるのはこの辺りであるらしい。

残念ながら発達障害者は未成熟であることが多いし、ある種の原理的になってしまいがちな貧困な人たちも未成熟な者が多いと思う。その差は正論を振りかざすことがその場において本当に適当かどうかを判断できるような観念をその人が自身の中に持っているかどうか、だと思う。ネット上ではそうした能力は著しく損なわれるように思える。

付和雷同して空気を保つことを是とするのと、場の空気に傷を付けてでも主張するのを是とするというのは対極である。賢い人はできるだけ空気を傷つけずに自己の主張を行うのだろう。何かしら判断基準があって引き際を弁えている訳である。私はそれが議論の態度だと思う。

欧米と日本で個人主義全体主義イデオロギー上の正論は違うだろう。その思想を正論だろ、とぶつけることは未熟でお互いに信じるものとの間に摩擦が起こるだけだ。正論を振りかざすこと自体が相互理解の穏当な方法で無いことを指摘しなければならない。互いにぶつかりあってどちらが頑丈か試す動物実験みたいになるわけで血で血を洗う方法である。

ヨーロッパの個人主義や民主主義が大きな争いを生んだのは、正論を振りかざすだけの未熟な発想で、その愚に気づかなかったからだろう。と、まぁ、そういう総括の記事がネット上に見られた。正論を振りかざせば良いと言う発想自体が、相手なんて無差別で良いという考えになってしまう。相手を理解しようとする態度こそが大人にとって最も重要であるにも拘わらず。

相手が未成熟である場合も未成熟であるということを前提に関わり方を検討しなければ抵抗が強く上手くいかない。正論を振りかざしても、相手にも信じる正論がある以上、ぶつかり合って火花を散らすだけだからである。相手の未熟さを考えられないのであれば、どちらの正論が正しくとも、どちらも人間的に未成熟だと言わざるを得ない。

頭の良し悪しは精神的成熟と相関関係があろうとも、この際、問題ではないのである。所謂、頭でっかちの人間が間違っているというのは未熟なのである。発達障害と思われるギフテッド(天才)は一目置かれる才能があっても性格が子供っぽく社会性に難があることが多いという。頭が良くて優れていても相手が見えないために彼らは人間的に成熟しているとは言えないことが多いだろう。

私も含め、そのように大人になること自体に生来困難さを抱えている人たちがいて、発達課題をクリアさせていくような教育システムがそもそも完成されておらず個人任せで、義務教育自体を受けれない地域に住む人もいれば、すでに大人になってしまった人々も多い。そういう人たちに大人になれと言っても現実的にその課題の達成が難しく意味が無いのである。自分がまともに生まれて育ってきたと思っている人ですら、そうした多くの人々がいる時代に生まれてきたことを理解すべきである。歴史の貧困さと誰も無関係ではいられないだろう。

成熟した論理的な考えを持った大人が、成熟していると勘違いしていたりする未成熟な大人や子供達とどう向き合ったら良いか常に頭を悩ませているのが人類社会の本当の構図だろう。人権や平等という言葉で成長や成熟という個人レベルの根の深い差別的環境落差の問題(現時点では解決の目途がたたない問題)が覆い隠され、自己の無知や無能力を無視して、誰が自由に何を言っても権利であり正しいのだ、というサブカル的で自由主義的な妙な虚無主義が流行っている。

有体に言えば、自分自身の生まれの覆しようの無い絶望の問題を自己実現という言葉でお茶を濁して現実逃避して救われようという話である。発達障害者の多くが世の中に絶望する訳だが、別にそうでない人間でも様々な事情で似たような理不尽な現実に曝されている者がいるだろう。その感覚を一々比べても一々が個人的な問題なので意味は無い。

日本なら「そんなこと信じられない」という幸せな人がいるとしても、世界を見渡せば間違いなく不幸選手権が開けるだろうことを否定しないだろう。運命の袋小路にいると実感する人々の民間療法的な救われる手段が宗教であり、○○教でなくとも、自由や自己実現という話であったりする。ただそれは気休めに過ぎないが。心境としては特攻隊員がお国のためにと思うしかないのと似ている。誰しも自分から見た場合には袋小路な訳である。他人から見た場合にどうであれ。

発達障害は人付き合いはあきらめて自己実現に励めと推奨されるが、宗教勧誘である(苦笑)救いようが無いから神にでも祈れというのと同じ話で、それが分かっている人間にはその選択は難しくなる。他人から見てそれがどうであれ。普通の知能を持った大人が本気を出せば医者や弁護士にだってなれる可能性があるのに、殆どの人はそれをしないのは何故か。発達障害者が健常者に歩み寄る努力をしろと言われるのは少なくともそれ以上にハードルが高いと感じられることなのだ。

そのように当人の能力に照らして過度な努力を要求されることは権利の侵害だと思うのだが言い訳だろうか?人間というものはみんな過労死して倒れるか自殺するかというくらい最大限の努力を要求されなければならないのだろうか?少なくとも私にはそのくらいの努力を見越さなければ一般企業で期待されるような働きは自分にはできないと思うが。

90歳の老人に引っ越し業者できびきび働けという感じである^^;問題は発達障害者にそのくらいのハンディキャップがあると直感的に分からないことにあるのだと思えるが。日本は人に能力差があることを長く認めてこなかった団塊好き社会なので、他人が自分と同じで「なんでもやればできる、やらないからできないのだ」という考えが常識的に凄く強い。それは発達障害者自身も植え込まれる考えなのだから、やって実際にできた健常者は猶更信じるだろう。

そんなわけで発達障害が光スペクトルとかいう脳波チェックやらMRIやら血液検査やらで科学的に分かるようになると戦々恐々とする発達障害者が出てくるわけである。鬱病もそうだが。自分が演技でやっているんじゃないか、という気が当人でさえしてしまうものである。要するに当人でさえ自分のハンディキャップを自覚しておらず、わからず、言い訳だとどこかで思っており「なんでもやればできる、やらないからできないのだ」と信じていて、過剰な努力を他人も行っているはずだ、と信じ、苦痛に顔を歪ませてそれをしなければならないのだと思う訳である…。だが、そうしてそのうち脱落する。

ストレス耐性が低いとよく言われているが、健常者が100耐えられるところを発達障害者は30しか耐えられないのだとすれば、残り70は精神力で耐えるとかLPで耐えるか気力で立ってるかしていて、何かでポッキリ折れるわけである。そういうのが不登校だと思うのだが。健常者は100のうち一日に80までのストレスを受けているとして、寝れば治るとか他人とのコミュニケーションで癒されるとかあるかもしれないが、

発達障害者は30のうち一日に80のストレスを受け、安息が取りにくいため寝られずに疲れが取れず、他人とのコミュニケーションにも苦痛を感じ回復する手段にさえ乏しい。更には能力が低いため馬鹿にされ暴力を振るわれ物を隠され…etc(愚痴)。そういうレベルの違いを主張しても「みんな苦しいのは同じ」と返されるわけである。そういう正論っぽい有無を言わせてくれないようなバリアがしょっちゅう立ちふさがってくる。

マジョリティには当たり前で簡単なハードルが越えられない人も中には5%くらいは少なからずいるのである。彼らは未だにそういうのは知的障害者ばかりだと思っているわけだが。マジョリティの社会でマジョリティだけを相手に駆け引きしていく人間が多いのだから。目の当たりにしなければ、関わらなければ、気づかない。

特異な体験世界にいるものは、それが生来の当たり前の世界なので、外からその特異さを指摘されない限り気づかないのだ。『発達障害のいま』杉山登志郎

日本人の健常者のマジョリティの世界もそういう類の特異な体験世界だと言える。

というのは、脳の異常で認知が歪んでる場合ばかりではなく、文化や環境、思想や知識によって、見えているものは変わってくる。相手が何を見ているのか、自分に何が見えてるのか、想像する余地・余裕を持っていることが大事である。視界は一面的であり死角を持っている。見える半径は人それぞれ限定される。特に対人関係の渦中にいる場合、まず自分が配慮するのはそうした各人の立場の問題であり、特有の提起された問題(議題やテーマ)に正論を叩きつけることではない。

そういうことが自然に考えられるような人間は成熟していると言えるので、問題は未成熟な正論至上主義的人間がネット上で多くなるだろう、という話で、そうした人間と関わりあう可能性が高いことだろう。互いに相手に配慮する視点を持っていないやり取りが多く見られる。現実でもネットでもそうした他人の立場を見通してROMなりをした方が視野は広くなる。

成熟しているのか単に同調したいだけなのか、というのもあるから何でも同調すれば良いと思っているだけの人間もまた未熟であろう。みんな同じと考えるより、誰しも特異な体験世界にいると考えた方がリアルである。宗教や障害、国やイデオロギーで整理できるものもあれば、個人的体験や知識、欠落などで固有なものもある。自身についてもそうした視点が必要である。自身や他者が何かしら無知である可能性を考えられなければ賢明でいようとするのは無理だろう。そうしていくと自分と他人と世界を相対化していける気がする。そうして妥当さを求めて選り分けていくことが知性だと思う。