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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

常軌を逸しても構わないが…

考えても仕方のないことを考えることが趣味なのかもしれない。

例えば、なぜ常識を守らないといけないのか?例えば、今、私が世界中の核発射ボタンを持っていて、そのボタンを押してはいけない理由があるだろうか。ドラえもん地球破壊爆弾を持っていたとして、地球へ向かって撃ってはいけないという理由があるだろうか。

アメリカの少年が8歳の少女を何気ない理由から射殺してはいけない理由があるだろうか…。要するにモラルを冒してはいけない専らの理由が私たちにあるだろうか。

法律で定められているから。他人に排除されるから。懲罰を受けるから。やってはいけないから。悪だから…云々。いや、別に、それを否定してブログの読者を悪の道に引きずり込んでやろうというわけでは無い。このブログで、盛大にやりたまえ諸君!などと犯罪を助長する気は全くないので気を付けて欲しい(苦笑)言うまでもないことと思われるだろうが、発達障害者自身分からないことが多いのだから忠告は必要かもしれない。

成長発達のレールがきちんと引かれた人生を歩んできた人には道徳や善性は疑うまでもないことかもしれないが、ある種の人にとっては…。サイコパス発達障害、ニグレクト等を含む被虐待者や傷病者など…所謂、持たざる者にとっては、常識あるいは良識が自明で無いこともある。

そういう環境にいる人にとって、法を冒してはいけない自明性は無いだろうな、と思う。結論から言えば、だからこそ、あらゆる人に舗装された道路を用意して交通整備する必要があるわけだが。あらゆる人が社会を肯定できれば、それを破壊しようとは思わないだろう。

経験的に人間は回帰主義になることがある。現代文明を拒絶して文化こそ諸悪の根源だという論である。無政府主義やポルポト的な共産主義なんかは原始的な過去へ戻れば理想的な生活があったはずだと夢想する。過去へと戻った際にあるのは、より強い弱肉強食的な自然の摂理に晒された過酷なサバイバルだろう…。障害者がそこで生き残れる可能性が今よりずっと上がるとは思えないし、そこで生き残れるのは、やはりその時の運が良かった強者だけだろう。

だいたい、ユートピアを夢に抱くのは金持ちだろうと貧乏だろうと時代に絶望した敗者だが過去へ戻ったところでユートピアなどは無い。だから、現代が良いのだ、とは言えない。いうとすれば、現代も最悪だが過去も最悪だ、というべきだろう(その不幸な人々にとって)。過去より現代がマシなのかどうかも置かれた環境次第では何とも言えないから、悪態でも付いていた方が事実を歪めないと思うのである。

私の発達障害というのは真理を志向する厄介な症状を持っており、嘘と分かり切った建前にしがみついているのが辛い。死んだら天国に行けるという類のおためごかし(?)が殊更嫌いであり、虚言は滅びろと思っている。まぁ、このような性格を持った人の場合、人間は元来、真理を写す鏡ではないので、自分の中の思い込みを真理として主張して譲らず問題になるわけだが…。

所謂、普通の人間は自分の中の思い込みという真理より、自分にとって都合のよい態度を選択するだろう。けれど、私のような人間は処世術的に都合の良い態度より自滅すると分かっていても信仰を優先するわけである。

『異邦人』のムルソーの性格にも自滅的に自分の感想に正直であるという傾向は見られるが。そういう実際の結果を度外視してしまう人間にとっては特に命や苦痛、懲罰は問題にされないわけである。そうすると核のボタンを押して何が悪いのか、という話になる。結果が明らかであっても、やってみないと分からないと主張したりする。

ある種の人々にとって自由とは劇薬だろう。私も無宗教になろうと努めたことがあったような気がするが。現在も特定の名のある宗教の信仰は無いが、そうではなく、ナショナリズム的なものさえ一切の信じられる価値観は棄却するべきだと思うわけである。クリスマスを祝うのは信仰では無いのか?無宗教とは言えない!という類の。

実際は日本の無宗教というのは信仰を持っていたところで信じていることの内実や是非に無頓着なだけである。バレンタイン?やればいいんじゃない?みたいな。正しいから正しいんじゃないの?みんなやってるんだからいいんじゃないの?とその時その時で多数派(処世術上正しそうな)の意見にフリーライドしている人々が多い気がする。それで困らない人々にとっては風よけのための全く正しい信仰だろう。無宗教と言っておけば当たり障りが無いからである。

ただし、その理屈からくる被虐者にとってはその理屈では被害に遭うし、生きられないから無論それなりの反抗が起こる。そういうのは全く力学的だと思うが。

自由になるように努めるというのは意味が分からないと無軌道になる。無宗教は実践すると虚無主義になったりするだろう。あらゆるものに価値は無いし信じるべきものもないし人生に価値も無い。あらゆるものに区別は無いし…云々。超人になれ!…その前に鬱になった、と。まぁ、区別は動物すらしているものだし捨ててはいけないと思うんですよね。結局、人間の進歩って分類に分類を重ねるしか無いので…。

イメージ的には分類して分類して整理して分類して…って果ての合理化が賢明さに繋がるんだと思うんですよね。正義や悪もそうした行為の言葉の綾という意味では意味は無いし虚無なのかもしれないけど。意志や人格、感情も物理的なものの帰結でしかない、という意味では無味無臭なものだから意味が感じられないかもしれないし。そういう意味で掴みどころが無くなるので魂とか意志とか信じたいんですよね。存在論的不安というか。足場の無くなる感じというか。ある意味、それが自由って概念ですが。

そうした人々にとっては、自分がしてもらった、という体験が殊の外重要だと思う。それが自分の生活というイメージの原風景になるから。論理はあまり関係ないですね。そういうものだ、という感覚(実感)が人生の肯定には必要なんだと思う。そういう記憶の無い人は不幸かもしれない。

7歳くらいまでの環境というか(勘)昔は13歳限界説とか信じてたな…。自我が固定化されちゃうんだと思ってた。性根はもっと昔の時点で決まると思う。明るさとか暗さとかは思春期を通して随分、変わるけど。私は主にテンションが変わっただけな気がするなぁ…主に低い方向に。体験世界は昔と今であまり変わってないと思う。それこそが問題なんですけどね。思えば目や耳を見えるように聴こえるようにしたいという願いだったな…。ワークメモリーを伸ばすと結構違うらしいんですが、生まれる時代が早かったな…。

性根みたいなものがあるとして、自分を変えたいと思ったころと比べて変わって無いと思うんですよね。『天使同盟』で内向的に堕ちてくような自分を変えたいって自殺に惹かれる自分を止めたくて礫は頑張ってたけど、だからといって蛹から蝶になるような変化は望める年齢では無いと思うんですよね。死にたいような自分は救えるかもしれないけど。

そういう作品多いですけどね。自分が蛹なら蛹として上手くやる方法を考える方が賢明なんだけど、蝶になれるはずだと思って的外れな努力をしてしまう。どこまでが蛹でどこからが蝶か一見して自明ではないことにも問題はありますけどね。大塚明夫が言ってたように人には才能と限界があるし。

男が女になれないように。女性の脳だと恐らく将棋で男性に勝つのは難しい。相撲とか。ただ女性の脳はコミュニケーションに向いてるので孤立し難いとか精神的に強いことは多いと思う。遺伝子的にもXYの方がXXより強いことが多いんじゃないかな…。まぁ、男女の良し悪しはそんなに分からないけど、その手の本質は変えられないので。少なくとも今のところ(苦笑)

表面的にはなれるっちゃなれるけど、才能が無ければ苦しむでしょう。例えば、バッシングに弱い人は芸能人とか向いてないので。仮になれても無理して生きるのが辛いってことになると思うんですよね。礫の努力ってのはそんな感じがして、自分の身の丈に合ってないと感じた。その頑張りって要は4時間しか寝てないアピールみたいな感じなんですよね(´・ω・`;)いや、8時間寝ろよ、無理すんな、みたいな。インフルなのに学校来て頑張ってるアピールとか要らないから、みたいな。発想がね、うさぎ跳びとか、そういう非科学的な感じですね。

発達障害系とか単に馬鹿だったり才能が無かったり合理的じゃない人は、うさぎ跳び系、を愚直にやるわけです。それは無駄な努力なので。そして、無駄な努力であることに10年間気づけないような人が随分いるんですよね…。私も含めて。そういうのを見てるとすごく死にそうになる。発達障害の人の執拗で人を選ばない元気な挨拶とかね…。見ていて精神的ダメージをかなり負う。

それと自分も多かれ少なかれそういうことをやってしまう自覚があるので凄く死にたくなります。衝動的に胸に包丁を突き刺したくなる。あらゆることが、その挨拶と同じように10年くらいやらないと「あれ、これ違うんじゃね」と気付かないんだろうなと思うと、禅問答みたいに思えてくるし、悟りを開くためにやってるのかな…と思えてくるんですよね。健常者から健常者に歩み寄る努力をと言われるとき修験者になれと言われてるような感じですね…。錫杖と法衣を貸与してほしい。社会に出てくる障害者はね、聖人君子で無ければならないんです。独りで豊かで静かで…

精神科の医師とか気分的には似たところがありそう。普通じゃできないと言われがち。発達障害者も普通じゃできなさそうですよ?何を言ってるのか分からない?ポルナレフ的な…あれですか。発達障害者は健常者に対して常に自分を偽る必要があるってことですね。自分を抑え込み彼らから見て間違った行動をなるべくしないように常に注意して相手に接しなければならない。というのを社会性として常に求められる、と思うわけなので。マニュアルはあるけど、その通りにすると「それしかできないの?」という扱いを受け、頑張って自己主張すると「空気読めないの?」という顰蹙に遭う。モラハラですよね。精神障害者に言動の普通さを求めるほど意味の分からないことは無い…。

求めたい気持ちはわかりますけどね。それってパートさんに正社員の働きを期待する感じというか…。即戦力ってのを新入社員に求めてる感じというか。私も信じやすい人間だけど、その企業の都合の建前を本気で信じてるのかな?って思うんですが。企業の面接で「君は御社で経営するに辺り何をやっていけばいいと思うかね?」って事務作業を希望している平社員に聞くことじゃ無いですよね(´・ω・`;)馬鹿なのかな、って思う。発達障害者が言うな!って切り返すでしょうけど、みんなが馬鹿なわけじゃないよ。ナチュラルにアインシュタインを馬鹿にしないで欲しいな(ぇ

そういう一休さん並みの蘊蓄とか求められても私無理だから。私はそんな感じで健常者と同席することに向いてないと思うんですよね。才能無いな。生きるのに向いてない、って言って死にたいですし。そして敢えて言うけど「私は悪くない!」敢えてと書かなきゃいけないあたり吹っ切れないものがありますけどね。自分への言いわけと本当に仕方の無い問題をどこで判断したら良いのか、それは自分の才能と限界を見切るのと同じくらい難しい問題だと思う。

曖昧だから他人も曖昧さに付け込んで努力が足りないせいだとか言いやすいんですけどね。障害は社会生活で問題が無ければ障害じゃないんだ!とかね。私は症状が観察されて科学的に存在が証明できるなら障害だろうと思いますが…。思うに言い表す言葉が無いんですよね。

1)科学的な異常

2)実際に社会生活で困る問題(ディスアビリティ

普通に言い表すと面倒事が起こるからその手の言葉が無いのかな、と思う。在るから障害年金寄越せ、みたいなね。発達障害があると、その派生症状と思われる障害が診断されないんですが、ADHDもLDもその他色々重複したりするものですが…。私が知らないだけなのかもしれないけど。

明らかにアスペや発達障害だけど困って無いから診断しない、っていうのが、私からすると、

風邪を引いても軽い風邪なら病院に行かない→診断しない→風邪じゃない、みたいな印象を持つんですよね…。

精神障害を差別から隠したい人がいて、それはそれで良いと思うんですよ。

けど、診断しないなら障害はない、っていう所謂、杉山さんの発達凹凸って考えは私は支持しない。

凹凸って書き方はインパクトがあるし随分分かり易い表現だと思うんですけどね。寧ろ、発達凹凸障害とかにすれば良い。

発達障害という名称自体何の障害だかよく分からないんですよね…。

ただ、障害を しょうがい とか 障碍 と書くのと、発達凹凸と呼ぶのとでは同じ印象があるというか。

育ち方によって必ずしも福祉的介入が要るとは限らないけど、それで個性と言われるのも誤解と偏見を与えると思う。

望ましくない個性だ、とかね。それなら障害と書いた方が他人は仕方ないんだなと受け入れやすいだろう。

障害が個性なら企業は選ばない権利が主張できるわけだし。当社とは社風が合わないので…云々。

鬱病になりました→障害は個性→そういう個性は当社とは合わないので個性を変えてからいらしてください→なるほど…。みたいな。

殴られて育った人間は痛みを知ってるよりも他人を殴るようになる人間が多いかもしれない。

そうした普段の生活環境からくるモラルが人にとっては最も重要に作用する気がする。そういう意味で今の時代は全体的に貧しいわけだが…。民主主義や自由の思想は宗教的な生活の中で充足している人たちから見るとわけがわからないだろう。自由という観念は曖昧で何でもアリということの意味も分からない。そんな曖昧なものよりは明瞭なルールがある方が安心できる人々もいるだろう。

自分探しの旅に出たりというのもわけがわからなかったが…。多くのものが建前と本音であり、特に私のような人々は建前に騙され踊らされている。

敢えて書くが、自分の命や身体がどうなっても良いのなら、赤の他人に対してミサイルをぶっ飛ばしても構わないと思う。それが自由というものだからである。けれど、普通の環境で生まれてきて育った人間は自分の命も身体も惜しいので、その権利を行使した後に自分がどうされるか予想するので、そんなことは馬鹿な真似だと判断するわけである。

殺人を冒した犯人が後日、被害者遺族に殺された、というのがあったけれど、それもまた自由だろう。社会に対する責任とか行為の結果を考えた時、あまり賢明だとは言えないが。社会や自分がどうなっても良いのなら何をしても良いだろう。何をしても許されるのか?という言い方があるが、許されなくて良いなら何をやっても良いはずである。

視野狭窄している人などは結果を度外視するので許されない結果何が起こるのかよく知らないまま不法を冒したりするだろう。鬱病による自殺も似たようなものである。考えられないこと・見えないこと、からボーダーラインを越えてしまう。銃乱射事件もそうだがそうした人々を実質取り締まることはできない。

そこに銃があるなら撃っても良いのである。その結果、射殺されても良いとするなら。日本でそれが起きないのは、銃が無いからであり、そうすることのできる環境から遠ざけられているためだろう。ある意味、人を殺したいと思うような環境から遠ざけるのが重要だと私は思うが…。アメリカで銃規制が難しいというように人を殺したい傷つけたいと思う環境から遠ざけること、それどころか遠ざかること自体、実際には難しいわけである。ストレス耐性は人それぞれでピンキリである。ある人は虐待的な環境でもまともに育つという。

例えば、児童虐待がニュースになっているが、児童を虐待したいと思う環境から養育者を遠ざけねばならないわけである。結局、刀狩をしたところで、何もなくても虐待なんてできるわけであるから。最悪、親子を遠ざけねばならない。養育者が絶対悪みたいに言われるが介護と同じ話で、だいたいは抑圧とストレス如何で、どんな人でも暴力を振るってしまう可能性はある。今は暴力的な言葉や放置も虐待に含まれるので件数が過去の統計より多くなる。引きこもりは割と虐待を受けているはずだが子供や老人などの弱者と規定される人以外、それは暴力としてカウントされない。制度の条件が変わってカウントされるようになったり、カウントされないようになったりするわけだが…。

社会的排除というのは相対的なもので、ある社員が邪魔だというので会社は彼を自主退職に追い込もうとしたり、あるいは自殺に追い込む。けれど、そうして被虐されることで逆に恨みを買い殺されることにもなり得る。殺人事件の多くは関係性の離し難さから起こると感じている。離職は社員にとっては生活に関わる問題であるし、会社側は正社員なら解雇することが難しい。その切離れのし難さから暴力はエスカレートすることが多いと思う。

日本では扶養義務の問題もある。個人が親を子を親戚を世話する義務があるというのは問題があっても切離せないということである。そのため問題の中に居続けなければならず、癌になっている個人に対して憎しみが溜まっていく。その結果、親が「子供を殺してください」などと懇願するわけである。それは耐え難い状況に置かれれば誰しも根を上げる。あるいは鬱か過労死か自殺である。束縛された関係から解放され無いことが暴力の動機であり、目的は束縛からの解放だろう。

親子関係にしても集団にしても、そういうことは起こり得る。例えば、ワキガで解雇された人がいたが、それは不当でも穏便な方法だろう。でなければ何れ物理的な問題が発生する気がする…。解雇された当人が別の就職先や生きる手段をキチンと保障されるのであればしがみつくことも無いのだが…。

例えば恋人に振られたから殺したというのも多いが、次を探せるわけが無い、みたいな心理からも心中しなけりゃならないみたいな状況に陥る。10年間付き合ってきて適齢期を過ぎて捨てられた女性だとか…。そういう意味で、命(生活)に関わるような離れがたい関係というのは主観的な問題で客観的である必要は必ずしも無い。

切り離すのが自分になるのも同様のシステムだろう。自分殺しという意味で自殺とは的を射ているのかもしれない。自分がいるから苦しいのだ、と言って、自分を切り離せば良いとか、自分を言葉で痛めつけて追い詰めるとか。自分自身さえ人間は排除しようとするだろう。そんな感じがする。他人に対しても自分に対しても、そんなに明確な区別をしているのだろうか?

自我の乏しい生物は他のものも自分の延長という考えをすると思っていて、本来自分と他人の境界線の無い場所に自我という境界線を意識的に引いているのが人間なんじゃないかと思うわけである。だから元々は自分に対するものと他者に対するものとシステムが別ではなく同じものを使っているのだと思う。

多重人格で見られるように、自分に対する意識の使い方と他者に対する意識の使い方は区別されて使い分けられていくうちに分離して個性を持つわけである。だから、多重人格の場合もまた、分けられて成長させた人格はもはや別々のものであり再統合することは難しい。自分と他者を同じ扱いにするようなものだからである。

女慣れした男は女性に対して自分の身体の延長みたいに思うのではないか。道具を自分の身体の延長だと思うように。その結果、警戒心が無くなるし、無造作になったり、無意識になったりという無神経な問題に繋がるのでは…。まぁ、私は他人に慣れたことなんてないが。

例えば、猫は(割と)他人を自分の身体の延長だと思っている気がする。精神的な問題から尻尾を食べたりするものがいるらしいが自分と他者の境界線が無くなるのだと思う…。自分の身体と餌の動物の区別が無くなるのかもしれない。まぁ、区別する能力の喪失が人間性を失わせると思われるものだろう。見当識が無くなるのはきっと自我が弱くなり自他の境界が曖昧になるのだと思う。無意識にさえ人間はというか高等な生物は区別を行っている。

トイレなんかはそういう問題だと思う。何というか、トイレという空間に入る前と外でも意識の切り替えは起こる。結構、あらゆる場所でそういうTPOの使い分けを意識的無意識的に関わらずしているわけである。リビング、風呂、ベッド、机とか。自分から見た自分/他人から見た自分というほど単純ではないし、自分と他人だけで切り替えているわけでもない。

でボケたりするとそういう機能が失われていくんだろう、と想像する。それと使い分けること自体に違和感とストレスを受けるのかもしれない。このペルソナが切り替わること自体、TPOの入れ替えが大なり小なり過負荷を与えているものだと思うが。私はかなり自覚的で煩わしく感じる。

それを自然に受け入れられないのである。人によっては、本当の自分じゃない!と思えるくらいに違和感を感じていて、納得できず、混乱する命題である。まぁ、いつも自分が一定していなければならない、みたいな固定観念に囚われているんだと思うが…。システムとしては多重人格的なものと一緒だと思うので、そもそも不安定な自己同一性(な人は)が揺さぶられる気がするしとても奇妙に感じられると思う。発達障害者は自明に方言を話せないし、他者に対する切り替えというのは方言を話すようなものだからだ。

多国語を話す人間は言語によって性格が変わることを自覚するらしい。これを不思議がっているが、発達障害者にとって、その奇妙さが理解できず混乱を招くのだろう。他言語を話すという行為も自分の回路を切り替える必要があるから。変化に堪え難さを感じる我々は、この神経的な問題にもルーティン的な安定を求めている。イメージとしては自分の意識の中をスプーンでかき混ぜられるようなものだからだ。普通の人でも老齢によって気難しくなるのかもしれないが、TPOの切り替えが少なからず問題を整理し直す気力を要するからだろう。あまり頻繁なそうした変化は普通の人でも歓迎しないのでは。