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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

異世界転生系のはしり

PCの設定を変えたからか、ブログのログインが切れて、長々と書いた文章が途切れて、

データも残らないという悲劇が早2回。何を書いたか忘れたし、同じものは二度と書けない(´・ω・`)

上記した状況が起きた時に書いてた文章で気づいた?んですが、

オーバーロード』を読んでいて、異世界転生系って、要はキリスト教や仏教で同じことやってたな、と思ったんですよね。

要は天国や仏になってやり直せるよって、俺TUEEですよね(´・ω・`)人類、異世界転生好き過ぎ。

ついでに「頑張ればね…来世で」って付け加える訳ですが。あ、やっぱり今生は無理なんですね?

そういう本が売れるということは、まぁ、そういうことなんでしょうね。小説や漫画、アニメ、映画に何を求めているのか、というと「逃げ道」だったりする。「逃げ道」「抜け穴」「解決の手段」このどん詰まりな状況をどう打開できるの?と。愛と友情と正義と努力で!というのも時代の反映なのかもしれない。最近はチートで!というのは愛も友情も正義も努力も「能力」に恵まれなければ手に入れられないじゃん、という気分が強いのかもしれない。

あるいは日常系やグルメ漫画。あれは日常の中に幸せを見つけて妥協しましょう。みたいなね。マイルドヤンキー系もそうですが。『ワンピース』はマイルドヤンキー系の先駆なんじゃないかな。仲間が全て!俺たちがやることは正しい!分かり合えない奴らは出ていけ!という。

エヴァンゲリオン』が流行ったのと同じでワンピースも時代の寵児だったんだと思う。自己実現!自分探し!自分らしさ!個性!好きな人同士だけでいればいいじゃん!同じ目的を持った仲間!オタク!ヤンデレ!鬱!そんなの甘え!

適当ですけどね。精神障害系が一時期流行って、鬱系も流行ったし、コミュ障系も流行った。大抵はそういう弱者が救われたいという物語ですね。『声の形』もコミュ障の子たちの話だと感じた。個人的に『ツレが鬱になりまして』『ぐるりのこと。』が傑作。『舟を編む』も良かったですね。救い方が現実的で。鬱は周囲が優しければ救えるし、アスペも向いた仕事環境が選べたら、という感じ。乗り越えるというより、どう辛い時期をやり過ごしていくか、という話の方が現実的に着地できる気がする。

『声の形』とか『あの花』とか『心が叫びたがっているんだ』(視聴してないからイメージ)とかね、一時的に気持ちは発散できるんだろうけど何も解決してないと思うんですよ。そういう意味では評価に値しない。気持ちをぶちまけて号泣すればお互い理解し合えて全部解決するのかな。

実際は何の解決もしていない日々をまた送ることになる。実際、相手を理解できない・理解されない、というのは相互的な問題。対等な関係になるには、相手が私を理解し、私も相手を理解しなければならない(互いに配慮するには何に配慮すべきか分からないといけない)が、現実、私しか相手を理解していない、とか相手しか私を理解していない、とか、どちらとも相手を理解していない、というパターンもある。

   相手を理解/相手を無理解・自分を理解/自分を無理解

相手

対等な関係は、

私が自分を理解し相手を理解している

相手が自分を理解し相手を理解している

時に可能だとすると、

全パターン= 4x4=16通りなので、1/16の確率になる。

まぁ、適当ですが。

例えばの話、相手が豚肉は食べれない、と知っていないと、豚肉を出してキレられるとか、そういう話である。知っていれば豚肉は出さない。自分が豚肉を出されたらキレることを知っていれば相手に説明できるが、知らなければキレるのを待つしかないし、何にキレたのかも分からない。

実際問題、私は私のことが上手く説明できないし、相手のこともよく知らない。それが相手も同じ場合が多いのである。特にコミュ障のように問題を抱える者同士がそれなら、互いに互いがなぜそう振舞うのか意味が分からず戸惑うばかりだろう。それで泣いても喚いても喧嘩しても問題行動が残り続けるなら、分かり合うような何かはそこには無い。互いにそうした問題から目をそらし距離を置くのがせいぜいである。

相手が車椅子に乗っているなら押してあげるとか、目が見えないなら手を貸してやるとか、道を譲ってやるとか、助けたり扱い方の方法が自明だろう。けれど、目に見えない問題は問題がどういうものかも、どう対処していいかも分かり難いのである。私が評価できないと言った作品は何れも解決策が詐欺の民間療法という感じである。自己啓発セミナーに行った感じ、というか。エヴァンゲリオン辺りの解決法だと思う。

あの頃は「自分の殻を破ればいい」みたいな考えがあって、それは今の作品にも見られるけど、実は自分の頭の中だけで自己解決できる問題なんてほぼ無くて、環境を変える等、必ず外界からの目に見える介入と変化が必要だと思う。意識や魂の変化ではなくて身体の変化が伴う、というか。問題行動を招いているディスアビリティな空間を内的外的に介入して変える必要性がある。自分の意識以上は環境なので。

要はビフォーアフターの番組で「どのように」を描いて欲しいんだけど、とっても壮大な音楽を流して泣き叫んで抽象的な絵を流したらあら不思議!アフターになってたってものが多い。整形前/整形後、みたいな。それに比べて私が評価した作品は過程を描いているものだ。冒頭に求めているものは「逃げ道」と書いているが「救われ方」である。要は救われるためのマニュアルが欲しいのであって、実践的なものが欲しかったりするわけである。

なので、その辺をキチンと書いてる作品こそ私は評価する。私が評価していない作品は、過程を描く技量が無いから誤魔化していると思う。映画には三幕構成というのがあるようだが、対立の部分を描ける知識が足りないのだろう。社会人生活をしたことのない教員みたいな話で。想像力の無い人は経験から書くしかないが、精神障害系の重く深い経験がある人がどれだけいるか。鬱病は比較的経験されやすく対立の過程をリアルに描きやすいという事情もあるだろう。

コミュ障はそれが発達障害関係なら治るものではないので、克服できたような人間がいないんじゃないか、と思う。それこそ『舟を編む』みたいに比較的静かな世界で生きるか、『孤独のグルメ』みたいに「おひとり様」の充足を描く話の方がまだしも、と思う。

個人的には長門有希が有希ちゃんになる必要は無い。長門有希が有希ちゃんになりたい、みたいなコミュ障を脱却したいという話はあるが、自分を捻じ曲げていると思う。何事も稼働の限界というものがある。私はそれを越えたものを期待された時、それって私である必要性がそもそも無いよね?って思うわけである。あぁ、私じゃないんだな、と。

自分が嫌いで私を抹殺したいんじゃないか、と思う。知的障害者で馬鹿なのが辛いという人がいたけれども…。というより環境がその人に向いていなくてでも選択肢も提示されず悲惨な憂き目にあってるんだろうな、と思うわけである。LDで読字障害があるのに延々本を読ませられる感じというか。「そのうちみんな慣れる」と言うわけである。

アレルギーについての知識が無い時代にもそういうことをいう人間がいたが。

ログ・ホライズン』でアカツキが引っ込み思案を克服する話があったが、すごい嫌悪感だった(ぁ。その勇気を出せば受け入れられるのにそれをできなかっただけ感が。確かにそういう人もいると思うんですよ。自称ひきこもり、コミュ障、けどリア充みたいな。

けど私は違う。真のコミュ障はね!違うんだよ。『わたしがモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の序盤の主人公みたいに勇気を出した結果、空気が読めない行動を撒き散らしそれとなく距離を置かれたり白眼視されるんですよ。そして気づいたら私以外がLINE、SNS。陰口を叩き笑っている。表面は友和!博愛!とか言いながら。そして「もう頑張らなくていいよ」と言われるわけです。仙水忍かな。蔑視されずとも可哀想な人だなという目でみられ何れにせよ見下される。

集団にどうしても入れないような人にはね、その人なりの距離ってやつがあるんで君たちの信仰に勝手に巻き込まないで欲しいんですよ。実際は信じてる神(体験世界)が違うだけですね。相手はキリスト教を信じていて、私は仏教を信じている的な。キリスト教こそ唯一神!愚民にはそれがわからぬのだ!と思ってるんですよ。国教ですし私の宗派(発達障害)は弾圧されてるので。

他宗教(比喩)をそのまま受け入れて欲しいんですが、マジョリティと同じ扱いをしようとして失敗に気付き、次第にハブっていき、あいつおかしくね?という意識を裏で共有し始め、2chに晒され(ぇ 、自分たちで見下したり白い目でみたり袋叩きにしたりするんですよ。私たち合わないね…生理的に無理と。いや、君たちが勝手に誘ってきたんだよね?それでこの仕打ち?そういうのもさ、ある種の一神教的宗教集団なんで、他宗教への寛容性とか無かったりするんですよね…。そして不敬罪扱い。流刑。磔刑

男と女は違うのに男のグループに無理矢理入れられたら気を遣うし合わないだろうね!…とまぁ、例の平等公平主義的友達の輪ですよね。私たち同じじゃなきゃいけないの!義務教育のクラスメイト!仲間!ってのは、そういう綺麗ごとを信じて現実を間違っていることにしたイデア的空間だから。

その世界で同じになれない…って馬鹿らしく悩んできたのが、性同一性障害であり、同性愛であり、発達障害であり、知的障害であり、コミュ障害であり…。同じじゃなきゃいけないという目に見えない信仰がある世界だからね…。同性愛を認めないキリスト教みたいな。少なくともその時々で暗黙の了解はあるんですよ。無宗教と言ったところで私たちはそういう生活環境の中の暗黙のルールを自己の中で規律化してモラルにしようとする。だから、そのモラルという文化的な服が自分の身の丈に合わないとき、自分がおかしいのだ、と思い、モラルに合わせようとし、それができなかったりとか、自己を否定し抑圧される。その結果、自尊心を破壊し、二次障害を負う。人格が歪む。発狂する。自殺する…等々。

長門長門で良いし、アカツキは引っ込み思案なりに少数とちょいちょい付き合えてれば良いんですよ。彼らに友達百人とか要らないので。私は彼らにグループの輪の中できゃっきゃうふふなノリをしていて貰いたく無いんです。そんなの俺の嫁じゃないので(ぁ

まぁ、その人の本質を無視した無理な変化は必要ない、って話ですね。気味が悪い。暗い人が無理に明るく振舞うように。勿論、それが本人にとって無理のない変化だというなら別ですが。