LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

孤立せざるを得ない発達障害者はどうすれば良いのか

端的に言って、家族でさえ理解して貰えない発達障害者は、結局のところ、社会福祉を信じるしか無いんじゃなかろうか。

 

行き場を失った人は、国民である以上は国が基本的人権を保障してくれるし、市役所や病院に仲介を頼み、行き場所を探して貰うことは可能だと思う。断言出来ないのは、日本が広い国であるということだが。

 

私が接することとなった医療従事者は私のような人を見捨てるような社会では無い、というようなことを言っていたし、私自身、一人暮らしの中で、頼りになったのは、そうした仕事をされている方々に事情を話して仲介を頼む、というやり方であった。

 

まぁ、それでずっと一人暮らしでやっていけるかどうかは、その人の生活環境に加えて、個人の資質の問題だと思うが…。私自身、家族よりは社会福祉(制度)に頼る方が結果として良いんじゃないかと思っている。

 

要するに家族は素人集団であり、(医療や社会福祉の)職員はプロ集団である。経験も自覚も倫理も違うのは道理であろう。他人より家族を信じる、という人もいるかも知れないが、私は家族より他人の仕事を信じている。家族には理屈が利かないことも多い。

 

家庭内暴力が典型だが、それにより通報したところで「喧嘩」とされやすいし、そのままであれば、家庭環境は変わらないし、再び「喧嘩」が起こる可能性もある。先程呼んだ記事では、祖母が孫に殺されたというものがあったが、孫の暴力により祖母が死ななければ喧嘩とされた可能性も考えられる。

 

家庭内においてはジャッジをする人間が居てくれず、常識が通用しないケースも多い。また介護疲れなどを理由とする暴力と言った風に、発達障害者自身も図らずもストレスの原因となり結果、家族から辛く当たられる可能性もある。そして、そうした理不尽は家庭内で問題を抱えるままであれば、当然環境は良くならない。

 

であれば家庭外で問題を共有する。第三者を仲介する、というように冷静で知性的な判定を下せる他者を頼るべきだと私は考える。

 

まぁ、弱者であることを好まない発達障害者もいるだろう。私はしばらく勉強を怠っていたので発達障害に対する知識が不足していると思うが基本的に、自分は障害で無いとか、努力によって乗り越えられるとか、思ってる人を良く見る気がする。ライフハック等でどうにかなると考える人もよく見る。

 

一方、私は基本的に過剰な努力は継続が厳しいし、自身の心身を考慮して無理だと思えば、すぐに諦めることにしている。

 

なんというか、発達障害者が努力を続けなければならない問題があるとしたら、それは一度経験した麻薬を辞めるくらいの努力が日常に必要とされている…くらいにはその努力を継続することは難しいと思う。まぁ麻薬なんて使ったことは無いわけだが。まぁタレントの不祥事なんかを見ていれば、困難さは理解出来る。

 

その結果、慣れず摩耗し続けるとすれば、それは無理をしているのだと思う。努力をすることと無理をすることとは異なる、と敢えて言いたい。

 

僕たちは恵まれて居ないが、日本という国では社会保障で守られることが出来る。そういう意味ではまだ恵まれている。

 

「普通の人と同じように活躍したい」そういう風に思う人もいるかも知れないが、私は当たり前に日々を生きられればそれでいい、と考えているため、思想的には劣っていてもそれで良い、みたいな感じはある。

 

何故障害者が健常者と同じ能率を上げなければならないのか。そうするには大抵の場合、無理をする必要があるような気がする。私は劣っていてもそれでいいと思うし、劣っていることが受け入れられる社会福祉があれば良いのでは無いか、と思う。基本的人権が守られるなら能力的格差は飲み込んで良いと思う。

 

私は散髪屋や医者になる能力があったとしても、そうはなれないと思う。どうしても相手を傷つけるビジョンが頭に過るから。そういう人間はその仕事で最善を尽くすことが難しい、と私は感じたし、そうした人間は散髪屋や医者になる資格が無い、と思う。そういう資格が無い人は、じゃあ仕方ないと思う。だから、機会を平等に保障されたところで、じゃあ努力次第で行きたい場所に行けるか、というといけないと思う。

 

発達障害者の中には努力次第で行けると思っている人もいるかと思うが実際のところ、僕等というのは、全体の中の少数者の内に数えられている。例えば、就職率98%みたいな専門学校があったとして、その就職しなかった2%の中には僕らがいるんじゃないかな、と僕は思う。

 

98%の人は就職出来るが2%の僕らは就職出来ないのである。それに就職したところで、色々な弊害が出てきて、最終的には良くて窓際職みたいになるのでは無いだろうか…。閑職である。

 

思うに僕らは義手や義足があったからといって他者に追いつけるような性質ではないのだ。精神の問題、心の問題、認知の問題、というのは義手義足のように単純に補えるような簡単な問題では無い。

 

発達障害の検査で理解出来るとは思うのだが、僕らは単純な学力では測れない能力が欠如している。発達障害の検査は結果が均衡を保たない。ある能力は高く、ある能力はとても低い、というふうな結果が出る。一般の人は均衡が取れているわけである。要するに僕らの認知はバランスを取ることが出来ない仕様なのだと思う。

 

その不安定さを常時、思考や行動の全てにおいて抱えて生きていく結果が、人より劣るという結果であるが、事はそんなに単純じゃない。劣っているという結果は、努力をすればいつかは追いつけるというようなものではない。かけっこでハンデを付ければフェアになるというようなものではない。メートル法の世界でインチ法の定規を使わざるを得ないようなものなのだ。しかも自分はメートルの定規を使ってると思い込んでいる

 

その状態で闇雲な努力を重ねている、という実態があるのではないだろうか。

 

要するにそれが「認知」の違いだろうと思う。格差というよりは、位相、次元、単位、そうしたものがそもそもズレているのだろう。前述したように、発達障害は認知能力を平均的に持っていない。ズラされているというべきだろう。だから何をしても上手く合致しないのだと思う。他者を見れば自分との異質さに気づくだろう。

 

 僕らは上手く他者の思考をトレースすることが出来ない。一方で健常者は、ある程度、それが可能だろうと思う。同じような認知機能を持ってるからである。

 

その時点で、かなり問題があると思う。他者と分かり会えないのは認知の歪さにより他人の思考を追体験出来ないからであろう。だから空気が読めないし、他人の気持ちも分からないし、他人が現実にどういう気持で向き合っていこうとしているのかもわからないのである。要するに共感が出来ないのである。シンクロする認知機能を持っていないから。

 

それが要するに「仕事」や「本分」に対する認識の低さ、だったり、覚悟の出来なさであったりするのだろうと考えられる。

 

まぁ、一度もう少し発達障害自閉症について考えてみる、学んでみる気はあるので、ここまでは無知な一発達障害者の経験上の考察に過ぎない。

 

まぁ、そういうわけで98%の人間は共感能力を持つが、私は持っていないので、分かってもらえないし、私も分かっていないのである。そして、殆どの人は他者と共感出来るため、2%の私の気持ちをわざわざ分かる必要性も無い。普段、右利きの人が左利きの人を考慮する必要性を感じないようなものである。

 

私がどれだけ他者と共感しようとしたところで、私には追体験出来る回路が無いので、その感情や情動、思考の形を思い描くこと自体が、恐らく不可能であろう。私には一生「普通の人間」を体験することが出来ないのだと思う。