LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

障害は性格の難に至る

「障害を理由にするのは性格に問題があるのだ」とO氏が言った。O氏には四肢欠損という障害がある。

 

一方、自閉症の私は人とうまくやれない。コミュニケーション能力の欠如、等、私の障害はコミュニケーションに関わる問題だからである。要するに、障害の良い悪いというのは性格の問題では無いのだ。

 

身体障害者にとっては、性格と思えるものも、精神障害者にとっては、心の病気である。事実、人の精神というものは不動のものではなく、時には病むものである。発達障害者にとっては性格の云々とは関わりなく、というよりも性格と障害は殆ど区切ることの出来ない問題として表出している。

 

ということは「性格」というものは、人間の根底に下敷きに出来るような要素ではないことを示す。精神鑑定というものが法にはある。精神鑑定において、疾病が認められれば、責任能力の有無を考え直さなければならない。

 

人と上手くやれる、という能力は複雑なもので、ネジが一つ外れただけで上手くやれなくなってしまうものだと私は考える。知的障害者であってもIQが低くなるほど、モラルは低下すると私の記憶ではある。知的障害者の性犯罪という問題はちょくちょく耳に聞く。

 

であれば人の尊厳のようなものを、障害と品性に分けることは出来ない。そのような例外的な症例でなくとも、赤子、幼児、少年、老人、等、その精神が未熟である時期というものがあり、認知症等は、当人のどうこうできる問題を越えている。

 

であれば性格を障害のせいとして片付ける理屈は理に適っていると言えるだろう。性格は先天性のものと後天性のものに分けられるだろう。そして、二つが撚り合わさって人格が形成されると思われる。

 

したがって、これも偶然性のあるものとも考えられ、完全にその人、自身の落ち度でそのように嫌われる性質に育ったとは言い難い。寧ろ、人は科学によって道理を知るのだ、と考えた方が未来はある。

 

科学には教育的手法も含まれる。様々な人格の逸脱に対してどのような処方箋を出すのか、というのが人間の仕事である。私は人は科学的に犯罪を抑止していくもの、と考える。

 

 

TVでは変わった人間を持て囃すが現実は逆である

同調圧力…というものが日本ではあると思う。

一方で、マスメディアは変わった人を取り上げて「色んな個性の人がいますね」なんてやる。しかし、それは単に変な人を募集しただけであったりする。

 

まぁ、司会者等はちゃんとした人を出来るだけ選ぼうとしているように見える。問題はレギュラーではない取り上げる人間の質であるのかなと思う。

 

食レポを最近良く見るが「おうちごはん」なんてものもリアクションは基本的に同じであるから、結局、外で食べるのと自炊との間に最早差異は無いのではないだろうか。勿論、ちゃんと美味しそうなものはあるが、毎日のように繰り返す企画の場合は怪しくなってくる。

 

そもそも美味しいものを食べて、数秒で表情が笑顔になって、などということは実際は無いわけで、みんなでリアクション芸を見守っている風になっているわけで。別に特別な場所に行かなくても、その辺のコンビニでも十分に美味しいご飯が食べられることは、それもTVメディアが放送していたわけで。

 

ある本ではNHK以外、見る価値は無い、という方針だった親がいたとか聞くが、さもありなんという気もする。ただ時折良い企画というのはやはりあるので玉石混交であると思う。

 

ただTVというのは常に流すものではないな、と私は感じている。まぁ常に流していた頃があったから気づいたような気もするが。

 

病院なんかは娯楽が無いからと言ってTVを流すが、それより書棚を充実させて欲しいと思う。誰が読むのか子供向けの絵本と、面白味のない週刊誌くらいしかない。散髪屋の方が漫画の品揃えが良い。賞を取った小説や漫画くらいは揃えて欲しい。雑誌は流行りものだから止めた方が良いと思う。何年前の雑誌だろう、みたいなヨレヨレの雑誌がおいてあったりするのだ。その点、漫画や小説はある程度、年月に耐えうる。

 

TVよりは漫画を読んだ方が、自分の好みに合うものと出会える。TV番組はずっと見てれば、マンネリになってる部分が把握できるようになると思う。今は毎日「コロナ」「コロナ」しか言わないし。

 

タレントを見ていると経年で人が入れ替わるから、まぁ大体の場合は人当たりが良く、人格が安定している人間が残っていくように感ぜられる。この辺りは刹那的な人間を切り売りしているコーナーとは違い、経年劣化に耐えうる人間性のある人物が残るべくして残っているような気もする。無論、例外もあるだろう。

 

要するに一発屋がブレイクして司会者やひな壇タレントになるというのが、芸人の目指すところの成功だろうと思うわけだが、そういう人物は運があるかもしれないが、選ばれて後にTVに耐えうる人間が残るのである。

 

これは声優も似ている。長く続けるには「安定」が必要なのだ。そういう意味で現実に求められる人間は「耐久力がある人」という風になるのだが、それはその人の人格がしっかりと根が張り、ある程度の質が保たれている人が選ばれるのだ、と思う。

 

今のお笑いのBIG3とか言われる人たちも、毎回の仕事で必要とされるパフォーマンスを発揮できる人たちなのである。むらがある人間はどこかでギブアップするので時流の中で残っていけないと思う。

 

耐えられない人は何かしら問題やら不祥事を犯したり、その前に上手いこと引退したりしてTVには見えなくなる。勿論、病気とか事故といった想定外の災難が理由であることもある。

 

youtuberとかいうのも同じである。まぁ、印税を貰う仕事なら一発当てれば良いみたいな分野も未だあり、そこには「夢」があると思う。

 

ただ安定した作家のような存在になるためには芯が無い人は残っていけないのである。大抵1作目が当たり2作目以降不振という人は、自分の引き出しが有限で一作目に全部ぶち込んだために、2作目以降は似たようなものしか作れない(同じ引き出ししかない)から売れない…みたいになると思う。これは私のイメージである。そういう人は一時の芸術家であって、プロ作家ではないのだ。

 

私はハンター漫画の人はプロ作家だと思っている。とは言え、漫画は完結しそうにないが。彼にあって、一発屋に無いのは、引き出しの中には具体的なものではなく、抽象的な物語に関するオノマトペ…セオリーがあって、それを基に色んな素材を加工し漫画の中に落とし込んでいくことが出来るかどうか、みたいな話だと思う。

 

例えば、ウテナピングドラムには根底している物語の型枠のようなものがあると思う。要するに色んな要素に何らかの隠喩を混ぜ込んで哲学風に仕上げるみたいな。まぁ何やらセンセーショナルな要素がそれらにはあった。要するに社会風刺的な側面があって、それでメッセージ性がある作品と受け取られて、人気を博したみたいな作品群である。

 

例を上げれば、エヴァまどかマギカ化物語系、攻殻機動隊サイコパス涼宮ハルヒブギーポップ…etc

 

とは言え、今の時代にはそんなにセンセーショナルなものがウケる下地はそんなにないような気もするのだが。ただ、まぁその時代の空気を切り取って風刺的に描くドラマがいつの時代もキャッチーで受けるという傾向はあると思う。「カクシゴト」なんかはそういうネタである。

 

露骨に言えば「こち亀」や「銀魂」のような作品はいつの世も受けると思われるが、きちんとその時代の文脈を追っていなければ描けない作品であると思われる。

 

まぁ、だから言ってしまうと、普遍的な作品ではないから、経年劣化して埋もれていくと考えることが出来る。今の社会で若者がエヴァンゲリオンを全話見ても「心の壁」があかんのや…とか思わないだろう。要するに私が挙げた作品は社会的背景があるライブ感が重要な作品なのである。

 

歌も同じで尾崎豊が流行ったのは、その時代のその空気という背景が仕事していたからであって、今ああいう歌詞はウケないだろう。中島みゆきの方が普遍的なことを歌っていると思う。「糸」とか。

 

まぁ、そんな風な作品の一方で「タッチ」みたいな名作は普遍性を扱っていると思われる。ジョジョ寄生獣スラムダンク…みたいなまぁそのレパートリーはどうかと思うが、私の中では普遍的な価値がある作品だと思う。私はどうもその時代の社会問題と自身が切り離せなかったこともあって、時代的な作品を好む傾向があったと思う。

 

プロの人は自覚的に物語を描けるんじゃないかなぁ、と素人考えしてみる。

 

まぁ、最近は現実と距離が取れているので、社会風刺的な物語は昔ほど心に刺さってはこないのである。そうなってくると、読書論なんかを読んでいると、結局は「古典」だよね、っていう話をしているのが今の所立て続けているので「古典」=普遍的な題材、が良いのだと思う。

 

「立て続いている」というのは、幾つか「読書論」というテーマでランダムに読んだ本に共通して「古典」読み、が良いと書いてあった、という話である。

第二波について思うところ

外出自粛ということがキチンと守られていて、数字にも効果の程が表れていたと思う。一方で、緊急事態宣言が下げられてから、人々が仕事に外出しだすことで、数字の上ではまた第二波が予測されている。

 

その状況において、人々は自粛をやめたようである。表面上はマスクを付け、店では除菌に精を出すが、3密の密にならない、という部分は守られていないように思える。

 

特に人と接近してしまうのは不味い。外出自粛解除されても、対人距離を空けなければいけない。それが出来ていない。心理的に人とある程度接近してしまいたくなる、というものを言葉によって守っていたのに、自粛明けという言葉で無しになってしまう。

 

マスクを付けてれば良いだろ、ということになってしまっている。コロナが完全に収束するまで3密も避けるべきなのだと、私は思う。でなければ第二波以降は日本だけ被害が少ない、ということにならなくなってしまうように思える。

 

ソーシャルディスタンス→フィジカルディスタンス(身体的距離)

 

3密とは何か3密を避けねばならない→0密を目指す

 

1密閉:窓がなかったり換気が出来なかったりする場所

2密集:人がたくさん集まったり、少人数でも近い距離で集まること

3密接:互いに手が届く距離で会話や発声、運動などをすること

 

この「3密を避ける」というのは見える所にポスターを貼った方が良いと思う。検索したらポスターはあった。

 

 

絆・繋がり・団結…デジャブ!これはもう私の入れない領域になってきている…っ

最近のSNSを見てきて、このコロナ自粛の中、絆・繋がり・団結・みんなで一丸となって…!的な流れが、何というか時代を逆行してるんじゃないかな…みたいな気がします。

 

団塊の世代ってやつですね。みんなで高度経済成長的な…。それが学生世代に直撃すると、それを守らないやつ=排除、という流れになるというあれですね。今回は「コロナ」という正当性があるわけです。

 

で、それで弱者になるのは「コロナ自粛」に対応出来ない人たち、ですね。そこでの正論は「コロナ」という実害があるから、という話になるわけですね。「コロナ」があるから私が言ってることは正義、お前がおかしい、と人格攻撃になれば、それは誹謗中傷でしょう。

 

「いじめられる側にも原因がある」と言う論

「いじめられる側に原因がある」という論、多くの人は「に」と考えており「にも」=自分にも原因がある、ことは認めない。

 

これがいじめですね。「にも」と分からないから自己正当化出来る。「にも」と考えていれば、距離を置いた発言も可能かもしれない。

 

そういう「いじめ」の中に国民全体が入ってしまっている…と思います。入りたいかどうかではなく、その場所に踏み込んでしまってるわけです。まぁ、コロナからこっちに来たわけで、誰が悪いという話じゃないです。

 

コロナ自体より、ステイホームでSNSで繋がって、支える的な一連の共感することを強要される「なんとかチャレンジ」みたいのありましたよね。ああいうの自分は無理です。おうち時間みたいな話も、いや別にコロナ前と後でやること変わらなくない?と思います。結局、アウトドアの人間が余暇をどう過ごしたらいいか、という話なんだろうけど、やはり私としては気持ち悪いです。

 

コロナ・ムーブメントと呼んで良いと思いますね。一種の祭現象だと思います。その根底には不安があり、それを集まって何とかしよう、みたいなことなのかな、とは思います…。物理的な密を避けた一方で、心理的な情報社会的な密を迫られた…のかな。

 

それによりやはり排除される人はいるんだろうなぁ…と思う。マジョリティの祭で、

 

「お前らマジョリティだろ!」

「応!」

「…」←マイノリティ

 

マイノリティとしてはああした空気に入っていけないです。

 

 

 

 

 

SNSと誹謗中傷等に関する感想

コロナの影響かSNSがヒートアップする傾向にあるようですね。確かに時間が潰せますが。人を潰しちゃ駄目ですよ。

 

誹謗中傷をする人は、若い傾向がある、という話を聞きました。私が若かりし頃はSNSなんて無かったわけなんですが…。私の経験では、友人に万引を強要されて、断り、やめた方が良いと助言さえしました…。巻き込まれないうちに逃げたので後のことは知らないのですが。

 

大学生になる頃には、過去の「いじめ」や「万引」その他「軽犯罪」等をしてしまったことを悔いてる人が割といました。その頃になると脳が成熟してきますから、少しは賢くなります。若者は過ちを犯しやすいです。思春期なんかもあって「学校普通に楽しかった」と言える人のなんと幸せなことか…と思います。どのくらいの人が学校生活を謳歌してるんでしょう。

 

さて、まぁSNSの誹謗中傷で炎上して云々に対しては、「中傷するのが悪い」「される側も身を守るべき」「される側は何も悪くない」という意見が主に分かれると思います。これはまぁ普通に「いじめられる側が悪い」「いじめる側が悪い」というやつと同じです。単に間に多くの無視する他者がいるだけです。私の読んだ本では学校という場でのいじめは「加害側」「被害側」「知ってて気づかない振りする人たち」という感じでした。

 

SNSでは3番目の人が多いため「無視しといて良いのかよ」と言う人が沢山出てくるというわけでしょう。そういう意味では、学校のいじめよりは陰湿でないのかもしれません(というか3番目の人の中から加害者が出てくるんですね)。まぁ、それも学校と同じではあります。

 

そういう話は昔からずっと繰り返し考えてるんで、結論から言うと「いじめ=犯罪」です…。いじめは犯罪です。ものを盗んだり、誹謗中傷したり、暴力を振るう…これらは犯罪です。学友でも友達でも家族でも赤の他人でも関係無いです。犯罪です。

 

それが公に罰則されない内側で処理されてしまうシステムが罷り通っていること自体、間違っていた(いる)わけです。いじめられたら速攻で警察を呼びましょう。その後もいじめられたら何度も警察を呼びましょう。第三者を介入させることでオープンな事件として扱って貰うわけです。そうすれば、その道のプロみたいな人が誰かしら出てくる可能性が高いですし、上手いことやってくれます。

 

まぁ、その辺が実際のところですね。犯罪に巻き込まれた時、自衛する必要が生じることもあります。これが所謂「中傷された側も身を守るべき」という論です。

 

事案:相手がナイフで刺し殺そうとしてきた

 

という場合、加害者が全面的に悪い。今すぐ刺すのをやめるべきだ。私は何も悪くない。だからここはノーガードでokなはずだ。流石、私、完璧な論理武装だ。

 

これが罷り通るか、という話ですね。結論としては理論武装して無敵の人になっても実際の防御力は少しも上がりません…。

 

事案:相手がナイフで刺そうとしてきた。

 

対応:避けた。逃げた。警察に駆け込んだ。

 

これが正しい対応です(身を守ること)。ナイフで刺すのは間違っている。だから避ける必要など皆無!と言ったところで、刺されれば実害があるわけで。

 

まず避けて、逃げて、証拠持って、警察に行けば良いんです。相手がどれほど間違っていても、実害を避けられ無い状況では、回避すべく行動を起こさないといけません。かなり当然のことです。とは言え、上手く回避出来る保証はありません。可能性にチップ掛けて頑張るしか無いです。

 

最後が「される側は何も悪くない」という論理です。これは間違いです。

 

例えば、些細な悪口を言った。

 

結果:酷く殴られた。

 

という場合、後者は罰せられるでしょう。ここで私は「悪口を言った」側です。「私は罰せられないし何も悪くない」と主張します。正しいでしょうか?正しくないですね。悪口は悪口です。

 

この「些細な悪口」という「きっかけ」があって加害という「結果」が起こった、という因果関係は割とあることが多いです。しかし、例えば「相手がイライラしていた」「そこに私がいた」という因果関係で加害してくる人もいます。マジです。実際、私はそういう目にあったこともあります。勿論、ここには因果関係はありますが私の責任は限りなく少ないでしょう。

 

まぁ、分かりやすい例を挙げると、

 

裸で風呂に入っていた。そこに裸の少女が入ってきた。少女に殴られた。

 

みたいな感じです。存在するだけで加害される例です。けど、これは随分、分かりやすい話です。

 

実際は、相手がイライラしていた。私が位置的に目障りだった。殴られた。

 

みたいな話です。したがって、殆ど相手の問題で自分に責任が無い場合もあります。ただ、ここでは「火種(きっかけ)」を抱えている人に関する話です。根本的に、小さな火種でも普通に炎上します。結局はその配分で悪いとか悪くないとか揉めるわけですね。

 

ある人がコロナで「性差別的な発言をしたから」、「炎上するのは当然」という感じです。ただそこには差別的な発言という「火種」があって、SNSでは燃える材料が沢山あった、みたいな話です。要するに、

 

可燃物がある場所に火種を投下すると炎上する、という話です。

 

当たり前の科学現象なのですが、なろう主人公が転生先で原始的な手段で火とか起こして俺すげー、ってなるやつですね。まぁ、そこまで発展してない異世界ものも少ないですが。

 

可燃物+酸素+火=あとは分かるな!?ちらっ(わかんなーい

 

この場合、本来第三者である人が加害側に回るわけですね。まぁ、そうなるともうその人はイジメに加わってるわけですが。つまり加害者になってるわけです。学校における第三者も似たケースは多いです。空気的に断れずにイジメに加わる…と。

 

きっと「万引」だって同じようなものでしょう。

 

問題は「火種」だというわけですね。けどそんなものは多かれ少なかれみんな持ってるので。「いじめられる側が悪い」というのは、そんな火種持ってるのが悪い!という話です。

 

「いじめる側が完全に悪い」というのは、仮に相手の火種が100(最大)だとしても悪いというわけです。何かこう諸悪の根源みたいなやつでも…。最早、入る前から燃えてるのに…。けど、燃えてるところに更に可燃物を投下するのは駄目ですね。それは追い打ちです。死体蹴りとも言います。火に油を注いでるだけです。

 

火に油注いだらどうなるかわかりますね?(と例えれば明らかに分かることでも、例えられる前にはどうなるか分からない人がいるんです)

 

 

加害者側は完全にアウトですね。ただボヤで済むか山火事になるかは周りの人の責任だと思います。第三者ですね。油を放り込むか、火を消そうとするか、傍観するか…という人たちです。

 

私は障害があるので、いく種類もの「火種」を持ってます。だから燃え移る可能性も高いです。「いじめられる側は何も悪くない」というのは、どれだけ火種を持っていても何も問題がない。因果関係もない、ということです。

 

けど論理的にはどんな場合にも因果関係があります。その「きっかけ」がどのようなもので、そしてどのくらいのものか、という話になります。この時点で、0か1か、という話では無くなります。

 

所謂「情状酌量の余地があるか」みたいな感じで、点数を付けます。どのくらい悪かったか、それとも悪くなかったか、みたいなことを因果関係を認めつつ、秤にかけてくわけです。

 

まぁ因果関係があろうと自責が0の人もいます。私みたいに自閉症(フラグ)抱えてる人とか、その他の弱者とかですね。知的障害があったり認知症の老人や、介護が必要な人であったりとか。

 

性格に難を抱えてる人もいますし。ここに人種やジェンダーとか、見た目や性別、まぁ宗教とか信仰とか、全部を挙げれないですが、ギスギスする何かを何かしらの事情で抱え続けていたり、そうせざるを得ない人もいるわけです。

 

「原因自体はその人のせいでなくてもいじめられる原因を所持している事実」は変えられません。「いじめられる側に(も)要因がある」こと自体は当たり前のことです。しかし、そこに責任があるとは言い切れませんし、責任があっても無自覚である場合等もあります。

 

仮に原因を所持しているという責任があるからと言って、いじめて良いということにはならない、ということです。

 

私は落ち度の塊みたいなもんです。それは否定出来るものじゃない。そういうものが自身にあって「そこに居ただけで殴られる」なんてことは恐らくしょっちゅうおこっています。

 

ただ、そのような理由で人権を侵害されることは許されません。というか、自衛のため、とかでなければ、どのような理由でも侵害してはいけないのですが…。

 

まぁ、それが私の結論です。

 

ちょっと文章がよくないですね…。もやもやしてる気がします。こういう話はもっとシンプルに書くべきでした…。

 

例えば、キリストが石を投げてる人に言うわけです。

 

「犯罪をおかしてないものだけが石をなげよ」と…

 

そうすると全員投げるのをやめるわけですね。多かれ少なかれ、みんな燃える時には燃えるんで。

 

まぁ、実のところ「犯罪」を「刑事上の」と考えてしまう人間は石を投げるでしょうが…。「ボクは逮捕されたことない!」とか言って投げるでしょう、きっと。

 

まぁ、だから人には教育が必要なんですが。

 

引用先では「人を裁く権利や資格を持つものはいない」と何か格好良さげなことが書かれていました。

 

まぁ、これなら人なら誰であっても資格ないんで石投げないでください。

 

これもまぁ裁判員裁判みたいなことがあるので引っかかるんですが。

 

とは言え、法が人を裁くのであって、人がその独断で人を裁いてはならないとは言えるはずです。

 

その辺までは論理で言える話だと思うので、いじめ論みたいのは結果出てる人も多いと思うんですが、炎上する度に単にまたその話蒸し返すのかよ…って感じです。

 

最近ことわざ辞典を読んでるのですが、例えが時代外れで面白く無いんですけど、この二つは大切だな、と思ったのを書きます。

 

・喉元過ぎれば熱さ忘れる

・後悔先に立たず

 

ですね。最近思うのは、喉元過ぎれば熱さ忘れる、ために人は同じ過ちを繰り返すのだ、ということです。警察の世話になっても同じことするくらい、すっぱり忘れちゃうんですね。人間って。

 

自閉症だから忘れるんだろうか…。いや、世話になったのは私じゃないですけどね。

 

後悔先に立たず、というのは所謂、喉元過ぎれば熱さ忘れる、とコンボになってるんですね(笑)その辺を説明します。

 

1.後悔先に立たず、のためにやる前にはやった後のことなんて考えもしてみない。

2.痛い目に合う

3.喉元過ぎれば熱さ忘れる、のために痛い目にあった記憶を忘れる。

4.1に戻る。後悔が喉元を過ぎて忘れ去られてるので、同じ過ちを繰り返す。以下、ループ

 

というわけです。

 

やる→痛い→忘れる→やる→痛い→忘れる→やる

 

この負の連鎖が続いてくわけです。スパイラルで落ちてくんじゃなくて、ループですね。この場合。ただ現実には罪を犯すほど重くなっていくのでスパイラルしていくと考えられます。なので実際は負のスパイラルになるかもしれません。

 

強力なことわざコンボでしたね…。

 

・人は痛みをいつか忘れるけど痛い目にあった記憶を教訓にして忘れないようにし、同じ過ちを繰り返してはならない

 

教訓です。

 

 

愛とは何か

まぁ、対人経験値があまりない私の話です。ここで言う愛とは、相思相愛、相互理解、パートナーになる…みたいな時に必要な愛について述べます。

 

前の記事で書いたことが下敷きになっています。相手を理解し尊重し譲歩する。相手に理解され、尊重され、譲歩される。これが愛で、互いにそうすることが出来た時に愛は相互に了解される。すなわち相思相愛と考えます。

 

具体的には後輩が言っていた恋人の定義と、家ついてって…という番組のあるカップルの発言を参考にしています。共通するそれは「尊敬出来る」という言葉です。相手の人間性を評価して「尊敬できる」から愛して最終的に結婚に至る。自分はそう思います。

 

現実には、そこまで相手を理解しないまま、流されるままに、結婚に至ることが多いのでしょう。お見合いや許嫁のように、相手を評価する時間を十分に貰えない場合もあるでしょう。結婚したら豹変したとか、何とか。あとはまぁ腐れ縁みたいな感じで、長く暮らす内に仕方ないみたいな心境に至る等。

 

例え定型であっても、論理的な理由で付き合って、結婚する人は少ないかもしれません。多いと思うのは、昔の夫婦みたいに夫に従順な妻とか、あるいは逆だとか、その場合、片方が片方を支配しているみたいになるのだと思います。

 

要するに、そういう結婚をした人はDV等に会いやすいということでもあり、自分に暴力や暴言を言うような人物と結婚すること自体、私には意味がわかりません。脆弱な人間が強い人間に縋るように結合しているのかもしれないし、強い人間は一方的な奉仕を要求するのかもしれません。要するに二人共ろくでもない。

 

思うにそうなってしまう事情は、時間が無い、等の理由から相手を完全に理解しきれていなかったとか、相手にフィルターを掛けて見ていた、とか、自尊心が高くないから、相手への要求のレベルをかなり下げてしまった…とかが考えられます。

 

「私なんかで良いんですか」等とよく聞く了承の言葉ですが、それは相手に関して問うべきものです。「こんな相手で良いのでしょうか」と自分に問うべきです。相手の情報を集め評価して自分が相手を尊敬できるか否か、こそ問うべきで、

 

「こんな私なんかで…」というくらいなら、そもそも結婚するべきじゃないです。自己評価ははっきりさせるべきでしょう。「自分が相手と釣り合うのか」という点も考慮すべき点です。自分がマウント取られるだけ、という未来が見えていて結婚するとしたら、その人は特殊性癖があるかただ愚かなのだと思います。

 

相手を理解出来るか、相手が自分を理解してくれるか、そして相手を尊敬出来、尊重出来るか…その程度は分かって無ければ、そもそも友人としてさえどうかと思います。

 

現実的には自分の近くにいる人の中から候補者が出てくるものでしょうが、だからといって、ハードルを下げるべきじゃないです。少なくとも「基本的に他者を尊敬したり尊重していける人間」くらいの条件は付けるべきです。最低限、最低限の人間性(まともな人)を持ってる人から選ぶべきです。

 

でなければ関わらない方が良いです。世の中を見ていると、ろくでもない人間がろくでもない人間と引っ付く場合がよくあるんだなぁと思います。どちらかがろくでもないという状態もよくありません。寄生されるので。結局の所、結婚出来るだけの人間性を持ってない人間が結婚しようとする…から酷い家庭が生み出されることになるのでしょう。

 

人のレベルがピンキリであるため、それは仕方ないことかもしれません。ただ私はここで愛に必要な条件を自分なりに語ってるだけなので。愛が必要ないなら破滅的な結婚をしてくれても正直どうでも良いのですが、出来るなら子供とかを巻き込まないで欲しいですね。

 

人並みの幸せが欲しいという人は何時でも見かけますが、私なんかは人並みでないことがよく分かってるため「人並みの幸せが欲しい」とは思いません。自分が人並みであって、初めて、人並みが要求出来るのです。まず自分が「人並み」であるのか、そこから内省してみなければなりません。

 

結果として「人並み」でないのなら、あなたに人並みの幸せを得られる道理はありません。能力が無いものが専門職に就けないのと同じ理屈です。

 

誰もが愛を享受出来るというのは嘘です。基本的には人を愛せない人間はまず相思相愛になれないのだから「相手が自分を一方的に愛する」という条件が発生するでしょう。それは単純に不公平です。私とあなた、二人の了解があって初めてそこに愛が繋がります。私はあなたを尊敬し、相手も私を尊敬出来る。そんな関係が理想です。経済的に言えばwinwinで無ければなりません。

 

しかし、現実は「シャア・アズナブル」みたいな心を患ってる人間が多く、父や母を求めてる身勝手な人間がゴロゴロしている、と自分は思います。その結果が相手への寄生でしょう。

 

結果として相手にモラハラパワハラをして自分に従わせようとする…みたいな愚かな関係が発生すると思います。

 

発達障害者もまた相手に粘着してしまう…傾向があると思います。少なくとも私は他者を愛することは出来ない。とすれば論理的に相思相愛は無理だと考えるので、他者の愛を求めることもしません。家族の愛が受けられるかもしれませんが、家族自身が発達障害等の傾向がある場合には、愛は受けられないでしょう。

 

友人さえ作れないのに、恋人を作るのも無理でしょう。ただ、私は愛が無くても生きていけると思います。誰かに愛される必要も誰かを愛する必要もありません。

 

じゃあなぜ人間は愛を求めるのでしょう。よく考えれば、十分な理由は無い、と考えます。孤独だとか寂しいだとか、それくらいでは無いでしょうか。それらは別に解消されなくてもどうということはありません。

 

 

 

 

無理解の言い訳と自閉症者の天敵

まぁ、なんというか。「お前が障害者でも私は何も変わらない」みたいなことを言われたことがあるんですが。それって「私を偏見で見ない」みたいにも聞こえるけど言ってることとしては、

 

「障害が無いものとして扱う」

 

ってことですよね。それは私のハンディキャップについて理解する気が微塵も無いし、気遣う気もない、ってことなんですよね。そういう家族が居たとして、表面上は綺麗に聞こえるこの言葉を解析したら、要するに「どうでもいい」ってことなんですよね。その人は耳障りの良い言葉で状況を無理矢理、正当化してスルーしてるだけです。

 

「ありのままのあなたを私は受け入れます」

 

ま、そういうこと言うやつは信用しない方が良いですね。自分に都合の良いことしかしないし、やらないから。

 

私が求めるのはハンディキャップに対する理解やフォローであって「家族として対等だ」という言葉の裏にある無理解・無関心・モラハラ・謎の理由なき無礼講、等ではないわけです。要するに自閉症に関する本を最低20冊読んで出直せよ、って話である。

 

これって多分、障害者じゃ無くても他者との関係において重要な点なんですよね。「相手を理解してフォローする」「相手を理解して対応を考える」「相手を理解して関係性を調整していく」これらは普通、人付き合いに関しての重要点なわけです。でも私達の障害は主にここが駄目なので。

 

まぁそういうわけで相手を理解しようと務める態度あるいは良く書籍に出てくる言い方として「相手との距離感を測る」というのは、障害が無くても自身の家族との関係の中でも重要な心得なわけです。というか全ての普通の社会生活で必要なやつです。コミュニケーションの肝です。

 

家族だから恋人だから「全部受け入れてくれるはず」だから「私はあなたのこと気にしないんで」というのは「ああ、私に興味も無いし助けてもくれないってわけね」と変換して間違い無いです。

 

TVとか見てると一目惚れで結婚した、とりあえず何か結婚した、みたいのよくあるけど、そういうのって結局「理解してくれなかったから別れた」みたいになると思います。お互い相手を理解する気のない人間は何れは相互不和となり分かれるのが論理的帰結です。まぁ、宿命ですね。

 

要するに「家族だから」というのは免罪符なわけですね。そして恐らく、言ってる人はその点に気づいておらず、自分の言葉に騙されてるというか理解してない綺麗事をならべて満足してるだけの人です。

 

コロナ・ショック中に家族仲が悪くなるのは、そのロジックを使ってしまっているからじゃないですかね。「家族と過ごす時にはリラックスできていないと家族ではないから無理矢理にでもリラックスして過ごそうとする」みたいな謎ルールがありますよね。そんなの嘘っぱちだから上手く行かないんですよ。

 

そもそも夫婦というのは他人です。家族自体が他人の群れでしかないです。つまり阿吽の呼吸なんてものは生まれながらに備わっているわけもない、ということです。

 

単に統計的に見て、家族との仲が良くなりやすいとしたら、それは一緒にいる時間が長く、その分相手を理解している率が高い程度の理由でしょう。双子の場合、お互いの思考をある程度トレース出来るため相互理解しやすい、ということが多いのでしょう。

 

そして、そのことさえ考えもしないくらい自身の言動を自分で把握出来てないんだと思う。ま、自分の中に道徳や倫理が論理的にインストールされてないんですよ。内省しない人ってのがきっと存在するんでしょうね。「相手や自分を客観的に理解するための論理思考能力」ではなく「声に出すと美しい日本語」的なものが変わりにインストールされてるんでしょう。DQNは。

 

『ナルト』でチョウジ君が言ってますが、大人になったら大人になるんじゃなくて、大人になろうと意識し努力して初めて大人になれるのだ。要するにその過程で、

 

家族とは何か・母親とは何か・父親とは何か・自分とは何か・兄弟姉妹とは何か・友達とは何か・他人とは何か・人間とは何か・愛とは何か…etc…云々という問い掛けを自分にしない人間は「勝手にそういうものになれる」んだと信じてるんじゃなかろうか。

 

例えるならそれは、赤ん坊はコウノトリが運んでくる、理論である。つまり、0点だ。その理論で人の親になろうという人間はまるで「車の免許も持ってないのに自動車に乗る」人間である。ルールを把握してなかったり、ボケてたりすると当然事故るわけだ。

 

「親しき仲にも礼儀あり」ということが分かってる人なら、そう家族仲も悪くならないはずです。理想的なのは私もあなたもそれを了解している、ということです。片方の理解だけでは一方通行ですからね。妻は夫の一歩後ろ歩け、ということです。しかし、時代は変わりました。夫も妻の後ろを歩かねばなりません。どうぞどうぞと言って互いに相手に譲歩しつつ結局一緒に歩けば良いんです。

 

歴史を考えると戦後という時代はそうしたものが整理され道徳や倫理、権利等の考えが、そうした道徳的なインフラもありませんでした。「衣食足りて礼節を知る」という風に、それが足りてきたのは2000年以降と考えても良いと思います。それまでの道徳は権威的であり壊れていました。つまり、何か訳なく威張り散らす人がいた感じでしょう。TV画面越しに殴ったり蹴ったり脱がせたり、ピー音でモザイクなことが何度も試みなれていた時代です。

 

そこに郷愁を感じる人がいたとしても、そこには経済的成長や技術革新とかの右肩上がりの時代だった、要するに復興期で高度経済成長とか呼ばれた時代のため、羽振りがよかったのでしょう。当然、そこに過去補正という郷愁が加わると「昔は良かった」ということを口に出す大人がいるわけです。大人は好き放題やれたのかもしれませんが、子供は教師から、先輩からの体罰モラハラは当たり前だったと思います。勿論、親からもそうだったでしょう。子供は環境によっては全く守られなかったわけです。

 

経済は下降し少子高齢化、非正規雇用の増加、地球温暖化年功序列の撤廃…まぁ色々ネガティブなことが棚積みにしてあるにしても、今の方が余程、様々なことが健全な方向へ進もうとしています。自殺率の遷移にその辺りは明確に表れている思います。

 

まぁ、だから「家族だからありのままの私で居られる」だとか「家族だから何でも受け入れてくれる」と思いたいんでしょう。妄想ですね。気心が知れる、というのは「その人を理解しており上手く立ち回れる状態」だと思います。人により対応を変えるのは、人に対する距離感が分からない、と言われる発達障害者には難しい行動ですが、人付き合いの要点だと言われてます。

 

つまり人により対応を変えるのが自然な人間的な対応である、という話ですね。まぁ、多くの家族が相手を理解する努力を互いにしたくないがために仲良くなれないわけです。で最終的に無関心になる、みたいな。まぁそれを家族に望んでるんだから仕方ない。

 

「何でも受け入れる」というのは「何でもスルーする」ということであり「理解はしないんで勝手にしてください。私も勝手にするんで」ということの表明だと私は思う。

 

尚、1人が譲歩する人でもそれは普通にその人に全部背負わせることになるので、やるなら、その点を理解してやってほしい。撃たれる覚悟のあるやつだけが戦場に立て、という感じです。親になるということはそういう覚悟(自分は顧みられないかも)をすることです。

 

まぁ、子供は何もしなくても親が面倒見る必要があるわけですが、成長の過程で、仮にそれを気遣われて育ったと言うなら同じように相手を気遣うということを学習するんじゃないかなー、と思います。まぁ、だから孝行したいとも思うようになるんじゃないですかね。定型なら。

 

で、まぁ「家族だから」が如何に呪われたワードかを語り終えたというていで、話を変えます。

 

閑話休題

 

自閉症者の天敵は無理解な定型と自閉症の人です。バッサリ言えば殆どの人間は天敵です。私もあなたも人間にどう接すれば良いのか分からない。磁石のS極とS極をくっつけようとするように反発するでしょう。前にシェアホームなんかの話を聞いたんですが、結論としては問題のある人と一緒に住んだら普通に炎上するよね…というものでした。火のないところに煙は立ちません。私は火種を持ってるので、行く先に煙が立ち込めます。

 

自閉症とはある種の火種であるため、火種が沢山あればそれだけ燃えるでしょう。自閉症者の味方は障害の知識があり理解のある定型です。仮に私が理解のある自閉症だ、としましょう。

 

でも私はストレス耐性とか無いしコミュ障なので、自閉症者に大人の対応をとることが出来ません。まぁ、それは誰に対しても上手く付き合えないのが、自閉症ではそのレベルが上がるだけです。

 

結局の所、理解ある定型というのが福祉関連の人とか精神科の先生とかしかいない、と考えて良いと思います。それ以外の人は自分を理解してくれようとはしないでしょう。「ありのままの」理論の人が多いでしょう。「ありのままの」理論の人は天敵です。分かり会えない宿命です。宿命と書いてさだめと読みます。そもそも、その人自身コミュ障かもしれません。「ありのままの」理論で武装してる人は対人のたの字も知らない素人です。

 

ちなみに相手と上手くやる方法というのは、相手を理解し更に尊重することです。その中で必要なら自分は何らかの譲歩をするわけです。

 

理解・尊重・譲歩…およそこの3つが他人と上手くやるコツでしょう。で自閉症者がどうかというと、これらを相手に求めながら「自分はそういうこと出来ないんで」と何か要求ばかりしている、感じですね。勿論、これは他人と上手くやれないその他の定型・非定型全ての人間について言えることです。

 

自閉症者同士が集まるとどうなるかと言えば、互いに理解も尊重も譲歩もしない。理解しても尊重も譲歩も出来ない、と言うでしょう。言わば、私達に関わるということは、私達を理解し尊重し譲歩しなければならない、それもほぼ一方的に…という話です。

 

要はその場に、難しい気質の我儘な子供が1人増える感じ、ですかね。その子の面倒を見ろ、と言われる感じで。まぁ、無理ですよね。

 

で私達の家族がどうかというと私の場合「あれをするな」「これをするな」「何度言えば分かるのか」「尊重しろ」「譲歩しろ」と命令してきます。まぁほぼ恐喝です。

 

本来、尊重されるべき障害者側が尊重しろと言われるわけですね。要するに「介護が必要な人に自分でやれ」とか「私に迷惑かけるな」と言ってくる感じです。私は言語能力高くないので、自分で反論することも難しいし、表現することも難しいですよね。反論しても相手は聞く耳を持ちません。私の能力では相手に抗することが出来ないわけですね。

 

にもかかわらず相手側から言えば「私を受け入れている」というわけです。「嫌なら出ていけ」というわけ感じですね。まぁ大分マイルドな表現にしてます。ダブルバインドとか適当な語句を出さずとも、全く障害を理解する気も受け入れる気も尊重する気も配慮も何も無いわけです。

 

私はひたすら引きこもってるだけでもバッシングを受けるわけですね。部屋の外にいるだけでも暴言をはかれると…。まぁ、要するに「ここにいるべきじゃないなぁ」と言うのが結論です。それでも動けない人は多いでしょう。

 

よくラノベでは劣等者同士が集まって傷を舐め合うものですが、自閉症の場合、そこには細菌が繁殖して病気になります(´・ω・`)私は98%くらいの他人は私を理解しないだろう、と諦めてます。

 

まぁ、そんな訳で自閉症の味方と言える可能性があるのは、お医者さんやその関係者くらいでしょう。専門知識を持ってるわけなので。その中で見極めてくしかないのかな、と。まぁ医者も人なので色々いるでしょう。なんか悟ってる感じの人もいるでしょう。そのくらいハードな仕事だと思います。割り切らないとやってられない感がある先生も多いのではないでしょうか。

 

昔、クリニックを探した時に、結構やばそうだなぁ、ってとこも割と見かけたし、実際、行ってみて駄目っぽかったとこもありました…。当時とは状況が違うとは言え、その病院の医者が信頼して良いかどうかというのは断言出来ないです。

 

ちょっと話を戻しますが、昔、作業所を探した時には、同じ問題抱えた人…とか無理だな…と思いました。同じ障害と言っても十人十色ですからね。まだ定型の人といたほうがマシでしょう…。互いに相手に興味を持たないで済むのがベストです。

 

まぁ、私としては最早「誰とも一緒に居ない方が良い」んですが。他の障害者とか理解の無い定型とか「ありのままの」理論を使う定型とか、それらは目に見える地雷なんですが、私達は自身も地雷元だということも思い出さなくてはいけない、と私は書いてて思いました。

 

自分は火種になる、という理解が必要です。どうも書物などを見ていると、自覚のない火種がうろちょろしているようですが…。一体、どんな破綻した論理武装で自己弁護してるんだろうか…。

 

普通の人は地雷を踏むと爆発するが、踏まなければok

 

私は地雷を踏むと爆発するし、そうでなくても地雷処理能力が無い人に接触すれば爆発するし、自分自身も地雷処理能力が高いわけでもない。

 

そういうわけで愛とか恋とか友情みたいな何かを期待しない方が良いでしょう。コミュ的な問題に対しては人並みの何かなんて私達には手に入りません。

 

家族に対してもそうです。「ありのままの」理論の人は信用せず距離を置くべきでしょう。実害が表面化しているのなら逃げた方が良いです。

 

自分は非常に珍しい奇病に掛かっている…という認識が必要かもしれません。事実、その通りです。否…と思った人は考え直したほうが良いでしょう。勿論、周りが悪い場合があることも事実です。相手の火種が勝手に爆発してることも多いです。私は比較的人畜無害な方ですからね。別に私だけが火種やら地雷やらを持ってるわけでもないです。

 

家族も含め他人に自閉症関連の図書を数十冊読ませるのは困難ですが、自分で読む分には制約はありません。まずは自身が自分の障害の理解者になろうと務めるべきです。この障害は十人十色です。パターンがあり自分はどの辺にいるのか、みたいなことを考えることも必要です。

 

己だけが自分を理解しようと自己を顧みず努力することが出来る、最も身近な他人である

 

と名言っぽく言っておきます。自閉症者自身が「ありのままの自分を」理解していると思っていませんか?前述したように、人は自分のこと自体自ずから理解しているわけではなく、思惟によって、経験によって内省することで自分の人間性を掴んでいくもの、と思います。

 

「ありのままの」理論はナンセンスです。何も語っていないのと同じだと言うことです。自分には障害なんて無い、と思っている自閉症者は多いという話を聞きます。灯台下暗し…と言っておきましょう。