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発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

愛の意味

立ち去ろうとして後ろに心がひかれる人の姿であり、その心情を愛といい、「いつくしむ」の意味となる。国語では「かなし」とよみ、後ろの人に心を残す、心にかかることをいう。それより、愛情の意味となった。はっきりしない、ぼんやりした状態を僾(ほのか)という。日が陰り薄暗いことを曖(かげる、くらい)といい、曖昧(物事がはっきりしない様子)のようにいう。

『常用字解』白川静

1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「―を注ぐ」

2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「―が芽生える」

3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する―」

4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への―」

キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー

6 仏教で、主として貪愛(とんあい)のこと。自我の欲望に根ざし解脱(げだつ)を妨げるもの。

[用法]愛・[用法]愛情――「親と子の愛(愛情)」「夫の妻に対する愛(愛情)」などでは、相通じて用いられる。◇「愛」は、「国家への愛」など、広く抽象的な対象にも向けられる。◇「愛情」は、主に肉親・親しい異性に対して用いられ、「幼なじみにあわい愛情を抱きはじめた」などという。◇類似の語に「情愛」がある。「情愛」は「愛情」と同じく肉親・異性間の感情を表すが、「絶ちがたい母子の情愛」のように、「愛情」よりも思いやる心が具体的である。

『goo辞書国語』

立ち去ろうとして後ろに心がひかれる人の姿であり、その心情を愛といい、「いつくしむ」の意味となる。国語では「かなし」とよみ、後ろの人に心を残す、心にかかることをいう。

 私としては字義を見た場合の愛の方が一般に敷衍している浪漫的な愛という意味よりも受け取りやすい。私的には愛という言葉は軽い。愛と情とは似たような意味では、と思う。いつくしむの説明は愛情により説明される。情を持つとは(対象に)愛を持つことだろう。

 愛という言葉が一神教的なものとして語られることに違和感があるのだと思える。主に恋愛事において、私だけを愛して欲しいというような形で、あるいは、自分の側もそれに応じようと、愛という言葉に特別の地位を与えようとする。けれど、字義的に言うと、心がひかれること何ていうのは良くあることだ。

 その辺りが私の気にかかる部分だろう。私は女性に対しては靡きやすい。好みの人を見ると、心が惹かれるだろう。その惚れやすさを愛と呼ぶならば、愛とは軽いものだと私は思う。愛は軽いものなのに言葉としては重い意味を持たせようとするから矛盾するのではないか。

 可哀想だと思い、気に掛けて、振り返りたいけれど、自分にはどうすることも出来ない相手。そういう気持ちを愛と呼んでも良いのだろう。片想いはそれ以上ではない。人類愛もまたすべての人が気がかりだから救いたいと願っても、一人の手におえるものではないと思う。だから、その時に、その多くの気にかかる対象を見捨てたとしても、それは愛と呼べるのかもしれない。

 感情的にはそんな愛には意味が無いだろうと思うし、実際、愛という言葉自体はそれ以上でもそれ以下でも無い意味しか持たないのだろう。愛しているから何かが支払われなければならないという訳では無い。愛という言葉自体は「軽くて無責任なもの」だろうと私は思っている。

 やらない善よりやる偽善というが結局、愛情の大きさより自分に何を与えてくれたのか、という利益自体が重要だと思う。例えば愛情を持っている相手がストーカーならどうだろう。あるいは、体罰を教育だと勘違いしている親であったなら?それは深い愛情を示す行為であると言われて、傷つけられたとして、私はそれを愛だと言って許容し納得できるだろうか。

 私には無理だろう。愛というのは個人的な感情であり、それ以上の何かではないのだから。愛があればオールオッケーなんてことはあり得ない。愛が全てということもあり得ないと思う。愛というのは心の働きの一つである。私たちはそこに多くの奇跡を託し過ぎている。神に祈れば全て上手くいくみたいな宗教染みた行いだろう。彼は確かに私を愛しているのかもしれないが、ただそれだけのこと。承認欲求を満たす意味では愛していると告げられることは嬉しいことかもしれないが、それ以上ではない。

 要するに何が言いたいのかと言えば、愛という言葉は全てを解決してくれる魔法の言葉ではないということ。そして、愛は限定的な心の作用であること。愛には制限と限界があるということである。

 結婚を決める動機は愛だけで良い、というような自由恋愛の思想は現実的ではない。実際には経済的基盤や血縁、宗教、コミュニティなど他の要素が絡んでくる。それらを無視して愛を貫くことも可能だろうけれども、それは限定的に可能であるというだけに留まる。多くの物語では駆け落ちの結果の未来は芳しく無い。愛には現実をどうこうする力は無く、現実をどうこうするのは人間の行為でありロジック(論理)の問題であろう。愛は動機ではあるが、実際的な力を行使するのは─愛しているからどうするのかと考えて為すのは─その人次第である。

 その辺のリアルをスルーして語られる愛は無鉄砲であり無闇である。そして愚かである。愛という幻想を一度叩き落とさねばならないと私は思ったのだろう。