LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

マスクを忘れた現象からの推論

 マスクを用意して外出しようと思っていたのに、マスクを忘れてしまったことに気づいた。気づいたのは、コンビニに入ってからであった。当然のようにそこまでの往来でマスクを付けて無かったので、忘れていたのだが、コンビニで三密に関してふと頭を過ぎり、それで自分がマスクをしていないことに気づいたのである。

 

 その事象から分かるのは、注意をある注意で上書きしてしまう、という脳の特性である。発達障害に通底する特性なのかは分からないが、私にはこういう「不注意」がある。正確に記すなら「注意し続けることが出来ない」である。単に「不注意」と書くとニュアンスの多くが伝わらないためここでは以降「不注意」とは呼ばない。

 

 そして、その現象の例えとして私は落とし穴の話をした。

「あ、前方に落とし穴がある。気をつけねば」と注意している時、

「後ろからなんか来たな?避けよう」と注意し、行動する。すると、

「良し避けたぞ。さていくか。あっ」と落とし穴に落ちるわけだ。

 

 推測すると、ある出来事(1)に注意している時でも、別の注意事項(2)が出来てしまった時、(1)を忘れる、ということである。厳密には「無」になるというのが近い。そういう経験をまるでその時間が切り取られてしまった如く、全くさっぱり忘れ去るのである。

 

 ワーキングメモリという言葉がどこまでのニュアンスを指す言葉なのかハッキリしないのだが、仮にこれを「注意」やある思考・意志・意識を脳裏にTODOリストのように留め置くものだとする。

 

 この時、私(自閉症)は、ある「意識・認識(1)」を繋ぎ止めている途中で、別の「意識・認識(2)」が入ってきた時、(1)の「意識・認識」が消去されるのである。消しゴムで消したかの如く消滅するのだ。

 

 したがって、この現象を仮に「ワーキングメモリの消失」と呼ぶことにする。「不注意」ではなく具体的には「ワーキングメモリが消失」するのである。

 

 この特性により私は「自動車に乗れない」「自転車に乗れない」「危ないことは出来ない」と考えている。「不注意」なら気をつけていれば気付けるのかもしれないが「ワーキングメモリが吹き飛ぶ」場合には、事前に注意しているか否かは問題ではないのである。

 

 注意することが重なると、前の分から消えていくため、注意を自身に強いることが出来ないのである。「気をつけること」が成立しないのだ。本当に「気をつける」には、ずっと「気をつけろ」と念じ続けなけれならない。その結果、本来やることは手に付かないのである。なぜならば、本来やることに集中すれば「気をつけること」は意識から消失するからである。

 

 「発達障害マルチタスクが苦手でシングルタスクに向く」という言説は、恐らくマルチタスクが「WMの消失」により、出来ないため、シングルタスクしか出来ないのである。

 

 さらには「実行機能の障害や遅延」というような問題は「WMの消失」が一因としてあるものと想像出来る。健常者はある仕事について一連の流れを想像して行うものだとすれば、自閉症は一連の流れを想像して行うことが「WMが消失」するために行えず、逐次処理しか出来ないと想像出来る。

 

 健常者が「線」として働いている時、自閉症者は「点」として働いているのである。つまり「流れ作業」において「流れる」ことが出来ないのである。したがって、ここに行為と行為の間に合間というものが出来ると想像出来る。それだけのことでも「流れ」でやる健常者と「点」でやる障害者の間の作業の時間差が開くのは必然的と思われる。

 

 「想像力の欠如」とは要するに「WM」に色々な事象を同期・統合することが出来ないということだろう。WMをクラウド・ストレージと考えた時、それまでのストレージに置かれた記憶や意識は次の事象をそのクラウドにアップロードした時点で消滅するのである。

 

 したがって、複数の思考を積み重ねることに障害があると言えるだろう。短期記憶を複数持って居続けることが出来ないはずである。本来、健常者は知識をクラウド・ストレージにあげ、新たな知識をそこに共有し統合することで考えを纏めていく。

 

 私にはそうした機能が無いので分からないが、恐らくそうしたことが可能だろう。私は他人の案内でどこかへ行った時、再び、自分の力で帰ったり、そこへ行ったりすることが出来ない。そういうイメージを持てないのである。「そういうイメージ」とは具体的には「場所の繋がりを想像する」という能力である。

 

 それこそが構造化の能力である。その能力が恐らくは「WMの消失」「メモリのクリア」という認知機能の障害(無いこと)だと思う。そこは多分、1か0の世界で0なのだと思う。足が無い手が無いというように、「WMを一定の量を保持する」機能が無いのである。

 

 更に言えば、要するに記憶や意識を積み上げていくことも出来ない。AだからB、BだからCと論理的に話を展開していく時、「WMの消失」によって、Cの時点でAを忘れているし、Bも忘れかけている、あるいは忘れるため、Cという地点がどこから来た(導かれた)のか、ということが曖昧になる。経験上、少なくともA-B-Cという連結は忘れ去られていると思われる。意識はCにしかないのである。

 

 健常者はAとBの記憶が曖昧でも僅かにでも残っていて、意識が厚みを持つことが可能である、と想像するしかない…。自閉症の場合、メモを読まないと、AとBの取っ掛かり自体もまた白紙になっているのである。意識には常に1枚の用紙があるだけ、と比喩しておこう。メモを読んだところで、構造化されないため、また忘れるだけである。

 

 だから、会話のキャッチボールも前に投げた球種のことがスッカリ0(無/白紙)になっているため、それらの会話を前提にした返答、というものが出来ないのである。したがって、例えば自閉症が重い場合には会話が「オウム返し」になる、という事例も包括できよう。

 

 それは「WM消失」という認知機能の障害があるため「意識」をクラウド・ストレージ上に置いておくことが出来ないために、遂には言葉をそのまま投げ返すことしか出来なくなっている、とも考えられる。

 

 「ワーキング・メモリ」の機能がどの程度、障害されるのか、という質的な問いをあげることは出来るが、何れにせよ、具体的に障害されていると見て間違い無いだろう。要するに多くの具体的な事例が、「ワーキングメモリの瞬間的な消滅」というような認知機能の障害からもたらされている、と考えられる。「想像力が貧しい」とかいうレベルの話ではなく、これは実に一瞬の出来事・現象なのである。

 

 比喩するなら健常者は自分の考えを自分のノート(10pはある)に書いているのに対して、自閉症者はホワイトボードに書いていて、次に書く時にはホワイトボードをまっさらに消さなければならない。しかも何かしら行動すれば、直ぐにでもホワイトボードは消えてしまう。

 

 結果として、ノートを元に考えを蓄積させ構造化していく、という行為が難しくなる。

 

 ここが、この脳機能障害の問題である。普通の人が普通に当たり前に無意識にやっている構造化という高度な情報処理。それは人間が成長する上で非常に大切なものだと考えられる。

 

 しかし、その機能が自閉症の場合、障害されており、結果として、過去から未来へ自分の認識を繋げていくことが難しいのである。生きていくというのは、想い出/経験を抽象化し構造化していく、という行程を踏む。だから「人は過去の経験から学び成長していける」とも考えられる。その機能は強(したた)かさの条件なのだ。

 

 その能力が自閉症の場合、怪しい/覚束ない、かなりの度合い障害されているように思われるのである。だから、過去の経験はWMを中心に時間軸で統廃合されずに打ち捨てられ、打ち捨てられたまま未来へと進むため、経験から学ぶことが出来ないのである。

 

 結果として、精神年齢が低いとか、困難に対して脆弱だとか、人と上手く付き合うことが出来ないだとか、空気が読めないだとか、色々な問題に派生していくと考えられる。要するに「データを蓄積して上手く運用する能力」に欠陥があるために「そのデータを元にした応用的なあらゆる行動が上手く取れない」というのが自閉症の根本では無いだろうか。

 

1情報は抽象化・構造化されない。

2情報を上手く引き出して活用することも上手く出来ない。

 

インプットもアウトプットも障害されていて上手く機能していない。だから、色々なハードルに対して、自分を応用して、それを上手く飛び越えていく、ということが出来ない。

 

 ワーキングメモリというクラウド・ストレージの不調という問題は様々な生活課題に適応することを難しくしており、生活面に実に大きな影を落とす/影響を及ぼすもの…と考えられる。

 

 発達障害は4つの面の欠如した障害だ、と言われているが、実は一つの脳機能障害による「WMの障害」による、あらゆる面に影響する学習障害(インプット・アウトプットの障害)による結果では無いのだろうか。

 

 私の使っている範囲ではWMとはPCのフラッシュメモリに該当する。要するに「全てのプログラム」はこのメモリを使って機能するのである。だからこの箇所の異常とは「全ての行動」が障害されることを意味するのである。

 

 無論、ここには私たちの意識も通らざるを得ないわけである。「(意識的に)考えること」はWMというクラウド・ストレージを俎上として行われるものと考えれば、その影響が大きいことは明らかだろう。

 

 前提とする記憶が脳裏から「上手く引き出せない」「覚えていられない」「すぐに消えてしまう」という問題があるとき、私たちが「(意識的に)考えること」が難しくなるであろう、ということは論理的に明らかだと思う。

 

 WMとは「脳裏」の問題と言っても良いのかもしれない。

 

 WMに自意識の問題は絡まないと私は考える。したがって、WMがその人の意識を歪めている、とは言えないだろう。ここは重要な点である。あくまでもWMの異常は計算機(コンピュータ)の異常だと思う。

 

 私たちの今ある意識それ自体は計算機の結果ではない。しかし、学習障害に見られるように、経験から学び、思慮を深くし、見識を広げる…といった「学び考えていく過程」は明らかに障害を受ける。

 

 要するにどのような数字をインプットするのか/できるのか、とか「計算結果」をどのように処理してアウトプットするのか/出来るのか、という辺りの機能はWMを通らざるを得ないし、そこで判定されるものだろう。脳裏という俎上に上がらざるを得ない情報はそこを通らねばならない。そうした部分を経てフィードバックされた情報に、意識は影響を受けるだろう。

 

 それが単純に知能の差に至るのか、という点に関しては私には分からない。ただ、碌な経験をしない、という事態は多分招かれている。その結果を受けて、性格や行動が歪んだり、というのはあるかもしれない。しかし、性格や行動の歪みは「受け取った/受け取る情報」のせいだろう。もしかすると、そこには知覚過敏のような感受性にも影響を及ぼしているのかもしれない。

 

 その「歪められた情報」によって意識や行動が生じる。意識や行動自体は「歪められた情報」の影響を受けただけで自立していると思われる。これはそのように観測される、という私自身の主観的な判断に依る。

 

 しかし、自分が「まともな人間だ」と感じる点に関しては、私は自意識が脳機能障害とはまた別の場所に在るからだ、と思う。だからこそ、自閉症者の多くが自分のことを普通だと思っているし、また道徳性も獲得していることの証左であろう。

 

 「熟考する」等、意識的な思考に制限を受けていること、は考察から恐らくは明らかである。しかもそれはリアルタイムで影響を受けることも明らかである。それは言葉のキャッチボールが出来ないとか、想像力が欠如しているとか、そうした表象として現れている。テストでもしてみれば、その人の情報の受け取り方に何か問題がある、ということは観察出来るだろう。ただ「情報処理の仕方に問題が在る」けれども、その人の意識、それ自体が、始めから何らかのパーソナリティ障害では無いということも分かる、と思う。

 

精神障害という風に括られているが、自閉症は、実際は脳機能障害である。だからそういう意味における「まともさ」があるのは自明である。要するに自閉症だからサイコパスになったりヤンデレになったりすることは無いと思われる。個人の自意識自体が障害そのものの影響を受けて歪んでいる、ということでは恐らく無いだろうと思われる。

 

その意味では自閉症者は精神的には「まとも」であると言っていいと思う。精神的という言葉が微妙であれば、意識的には、と言い換えても良い。自意識…それ自体はまともである。ただし、普通に何かしら考えるだけでも思考の制約(障害)を受ける。

 

 経験されたことや経験することにより受ける影響等は障害される。生活上の支障が出てくるのも障害による影響である。そうした障害による軋轢がどんな場面においても生じてくることは免れないし、全体として人生に影響することも免れない。普通に生きていれば普通に障害の影響を受けているし、そうした経験から二次障害が残ったりすることも考えられる。

 

 障害があるというのはそういうことである。例えば、脳味噌だけが機械に繋がれて生かされている状態で、その人が「自分はまともである」と述べたとして、私たちはどう思うか。狂ってると思うだろうか?私は「まとも」である可能性も十分にあると思う。

 

 じゃあ、さらに推し進めて、それが「私/あなた」だった場合、私/あなたは自分が「まとも」だと思うか。あるいは正気だと思うか。私は今の私がそういう状態に置かれたならばその時点においては私はまだ「正気」だと思うだろう。後々、正気を失うのかもしれないが。

 

 発達障害自閉症というのは、要するにそういうイメージで捉えるとわかり易いのでは無いだろうか。どちらかというと自閉症というのは身体障害のイメージである。自意識というもの以外の脳機能が障害を受けている。その感覚は脳性麻痺等と通底している。知覚過敏を押し広げて、感受性や思考能力が影響を受け著しく障害されている。

 

 自分の頭で考える能力とは自意識とは別の場所にある機能なのだろう。それは携帯の中の電卓のようなものなのである。あくまで本質は携帯そのもの、である。通話機能ですら携帯の本質ではない。とは言え、通話機能が自意識だと考えても良いと思う。

 

 そういう例えで言うなら、電卓機能は壊れているけれど、通話機能は生きている、という状態が自閉症である。まぁ電卓機能が壊れている影響でもしかすると通話機能も文字化け?したりするのだろうということである。音割れとかでも良いが。

 

 その影響でアドレス帳の表記が文字化けしたりしているわけである。本質は変わらないから記憶を頼りにどうにか使えないわけじゃないが、記憶が曖昧では情報を再現出来ないため、自分の力では使いものになりそうには見えないわけである。

 

 そうした状況に生きているのが自閉症当事者かな、と思う。この辺で筆を置こう。

 

 

人はなぜ歳を取るとゲームをしなくなっていくのだろうか/RTAという思考訓練法

ゲームは非常に無駄が多い。RPGにせよ、多くの時間がストーリーを読むことよりも戦闘や移動といった作業に当てられる。

 

普段、仕事をしていて、休みも限られている…そういうルーチンワークが嫌な人は、ゲームはコスパが良くないから、ということで敬遠していくのかもしれない。

 

もちろん、歳をとってもゲームをする人もいる。ただ、そこに時間をかけるだけの価値を見出したい、という人は、ゲームよりも本を読むとか、自分を磨くことに時間をかけるのではないだろうか。

 

あるいは、ただ疲れるから嫌だとか、休日はゆっくりしたい、貯まっていた家事を片付けるだとか、そういう必要なタスクをこなしているのかもしれない。

 

私は歳をとってもゲームしているが、最近は、あまり時間を割けていない。まぁ、一過性の状態なのかもしれないのだが。

 

ゲームをするといっても、漫然とプレイする人と熱中してプレイする人との間の差異というものがある。前者はプレイしただけで満足して終わってしまう人で後者はプラチナトロフィーとか取るまでやり込むようなモチベーションがある人である。私は後者になりたいなぁと思う前者なのだがゲーム終了後には最近はあまり達成感や感動を覚えない部分がある。「そこにゲームがあるからプレイするのだ」という登山家のような気持ちである。

 

思うにRTAをする人たちの中にあるモチベーションのようなものを展開したときには、そのゲームの中に繋がりを発見していく面白みがあるのではないか、と推測している。そのゲームの構造を考えなければ、様々なやり込みは自律的に出来ないからである。

 

つまり、RTAをする人たちのように、あるゲームを把握しようと務める態度が、ゲームというものを楽しむ中では大きい違いを産むのだと思う。もちろん、ゲームだけを対象にした話ではない。

 

自分の中である何らかの繋がりを持って構築されていくものを獲得するために、何らかの行為に取り組む、ということ自体が主体性を発揮し得る態度に繋がっているのかもしれない。

 

「主体性を持って取り組め」と言うのは容易い。しかし、これは「行うは難し」ということわざに繋がるわけである。何事にも「主体性を持って取り組め」というが、主体性とは何なのか、どうすればこれを持てるのか、どうやれば実践出来るのか、という点に関して「この文章から」答えることは難しい。

 

私はその一つの答えがRTAに観察されるテクニックやそれを可能にする脳内の地図(繋がりや構造、ロジック)の中に発見できると思う。つまり、彼らのようにすれば、それは結果的に主体性を発揮することになる、のだと思われる。

 

主体性というものは結果である。逆説的に観察される状態を「主体性がある」と述べており、それがあるから優れているのだから「主体性を持たなければならない」と言う。逆説というものは順番が逆なのだ。

AならばBが成り立つ時、しかしながら、

BならばAが成り立つ、とは言えないし、本質的に正しい論理展開でもない。例えば、赤ん坊→少年→青年→老人、は正しいが、老人→青年→少年→赤ん坊は、正しくない。順序を逆転した際には、そこにあった論理は欠けるのである。

 

そこにあった論理とはこの例でいうと「人はこうして成長する」という時間的な過程である。逆転すると「人はこうして成長する」という論理はそこから失われる。

 

「能力がある人には主体性が見られる」が正しい時、だからといって「主体性があるから能力がある」と考えるのは論理展開的に妥当な流れではない。つまり正しく無いのである。

 

要するに「主体性を持てば良い」という主張自体、論理的にはそう言い切ることが出来ないのである。能力がある人にとって「主体性」はその人の1側面を見ているのに過ぎない、と言うこともできる。

 

「藤井さん」や「羽生さん」や「イチロー」や…まぁとりわけ優れた一流の人たちには「主体性」が観察された、としよう。しかしながら、彼らと競争している相手方も「主体性」を持っている、としよう。では、能力の多寡はどこで差が付いているのだろうか。

 

つまり、そういう話である。主体性は逆説的に観測された、というだけの理由から鑑みると、(例えば)才能や実力を構成する要素の一つに過ぎない、ということが十分あり得るのだ。

 

また「主体性」というもの自体、何らかの現象の結果として表面に浮き上がってきた状態の観察された状態の形容、であるということも考えられる。

 

まぁ、ここで言いたいことはそうではない。そうではなく、ゲームに熱中する態度はRTAを観察し参考にすれば、再現可能なのでは無いか?という話である。RTAをする前提でゲームをしているから、その状態(高い動機やモチベーション・(繋がりや構造を考える)ビジョン)が得られている、とするなら「RTAを模倣する中で、その体験が直に得られる」と考えるのはロジックの道筋としては合っていると思う。

 

「どうすれば主体性が身につくのか」と考えるのは、恐らく問いとして正しい手順を踏んでいない。「なぜ主体性と言われるようなものがある個人に表出したのか」と問いを立てた方が真っ当な順序である。

 

そもそも「主体性」は勝手に問題だと決めつけているだけで実際は本質的な問題ではないのだ。恐らく「主体性」は行為の副産物(そもそもそれは後付された解説みたいな実体の無いものだ)に過ぎないのである。

 

要するに、抽象的な概念である「主体性」は身につけることは出来ないし、そう問う事自体がロジックをきちんと展開出来ていないという証左である。

 

じゃあ、どうすれば「ある問題」に対して心から集中していけるか、と言うと、私の解答で言えば、RTAなのである。それを抽象化して言うなれば「問題への態度(切り込み方)が結果として、そうした展望(繋がり・構造・全体把握のビジョン)を与える」のである。

 

あるゲームを出来る限りショートカットをしようと考える場合、何が必要で何が省略出来るのか、という最適化を自分なりに行う過程で、シミュレーションや計算を行っているわけで、結果として、そこには自分の頭で考えるための情報の入力、といったインプットの問題も入ってくる。そこには明らかなデータと計算された道筋、という言わば「情報を知識に変える」必要性もあり、それを試行錯誤して実証する(アウトプット)、そして最適化する、という行程が、どうしても入ってくるわけである。

 

それは要するにそのルートを通るためには「考えること全般が必須だよね」ということになる。つまり、RTAというのは「考えること全般」を必然的に課される「やり込み(ジャンル)」なのである。

 

勿論、RTAだけが思考の訓練になるわけではないが、少なくともRTAは多くの読書法において必要と言われている過程を網羅しているように見える。

 

要するに「自分の頭で考える力」が付くと考えられるのである。つまりは、RTAを一種の実践可能な知的訓練法だと捉えることが可能になるのである。

 

「考える力を養いたい」と思った時にするのは「訓練」や「修行」である。要するにどうすれば良いのか?というのは「考えれば良い」のである。という話なのだが、じゃあどうしたら「考えられるのか」という袋小路に嵌るわけだ。その回答の一つが「特訓」「訓練」すること、である。

 

とはいっても、複数の本を読んでも、具体的にどうすればいいのかわからないよ。というわけである。複眼思考だの抽象思考だの具体思考だの用語だけで実際にどうするのか、ということは問われないか複雑で実行出来ない。だから、分からない。

 

まぁ、そういう中で具体的に一つ提唱出来るのがRTAなわけである。別に教育過程でも、部活活動でも、趣味の石集めでも、芸術全般においても「考える力」が何かしら結果として高まるトレーニングを探すことは可能だろう。

 

私が言うRTAは「結果として」「考える訓練」になってしまう、というものの一つの例である。しかし、それは「主体性を身に着けろ」というような逆説で言われる抽象的でとらえどころのない課題をあてもなく考える(砂漠で一つの指輪を探すようなものだ…)よりは、直ぐに実行可能で論理にも適っているし分かりやすく、訓練可能で、結果も目に見えるし、そして多分やっていて楽しい(かもしれない)。

 

そういうゲームなら頭は良くなるだろう_φ(・_・

 

いや、最初の問立てからかけ離れてしまったが、ゲームは実に頭の訓練において有意義にもなるのだ、という証明が完了してしまったようである…。恐らく、脳死プレイしているから詰まらないのだろう…。

 

まぁ、とは言え、訓練法は一つではないはずである。私たちは何事からも何かしら学ぶことが出来るし、あらゆる物事は幾らでも深い洞察を与えてくれる。

 

重要なのは逆説というものはゴールからスタートを逆算して目指すようなもので、実際に行われる場合にはきちんとスタートからゴールを順を追って目指さなければならない、ということである。

 

「過程で見いだされ得られるもの」が得たい場合には、少なくとも順序というものが重要である、と思う。過程を逆から追うのではダメである。少なくとも、過程を1(最初)から順に終わりまで踏まなければならない。

 

 

左利きにはヌーボードが良いかもしれない

ヌーボードというのは、ノートタイプのホワイトボードである。

バタフライボードというものもあり、これもノートタイプ。

 

用途としてはメモや計算、アイディア等を写しておくとか、TODOリストを作って透明シートでチェック入れるとかが…ある。

 

考える時に書くという表現で思考を進めていくと、例えば数学の問題のように紙を無駄に使っていくことになるわけである。それは学習に必要な犠牲である。計算や思考を表したメモをいちいち保存しないのであれば、ヌーボードに書いて最後に消せば良いし、思考のログを保存したいなら写真を撮れば良いのかなと思う。

 

そういう意味でメモに積極的になれるツールになると良いような気がする。タイトルに挙げた左利きには良い、という話だが、そもそも左利きの筆記をボールペンですると、すぐにインクが出なくなってしまう、というのが問題としてあった。所謂マッキーのような油性ペンやシャープペンシルは書き心地に問題がある。何れにせよ、ざらつく感じがあって、長時間に筆記にはが疲労伴う。

 

そこでヌーボードが良いかな、と思ったわけである。これはホワイトボードなので表面がつるつるしており、そこに油性ペン(バタフライボードの細いペン)で書くわけだが、非情に滑りが良い。つまり、シャーペンのように書くことのストレスが少なくて済むし、ボールペンのように詰まらない。油性ペンをノートに使うのと、ホワイトボードに使うのとによる筆記性の違いは、普通に想像して貰えれば分かるかと思う。紙に対する油性ペンはざらつく。ホワイトボードに対してはざらつかない。

 

書き心地という点で優れていると感じている。

 

 

 

 

 

一日自由に使える時間が3時間だとした場合について

ということを考えていました。

 

一日3時間を自分で使えるとしたら、1年間で1068時間使えるということですよね。過去のネトゲでは私は1年間で1500時間くらいプレイしてた訳ですが(´・ω・`)

 

まぁ、そう考えると、1000時間かぁ…とちょっと少なくね?と思う。1000時間と言えば、50時間くらいのゲームを20本プレイしたら終わるレベルである(´・ω・`)

 

一日8時間を自分で使えるとしたら、2848時間である。16時間勉強するという人がいるけれども、私は現実的じゃ無いと思っている。そもそも12時間位私は寝ている(´・ω・`)

 

二度寝しないとパフォーマンスが復帰しないので、私は基本的に充電完了までとにかく寝る。要するに体調が正常値に戻るまでは寝るのである。だから、調子が悪い日はもっと寝るだろう。

 

この時点で一日の1/2を使用している。食べたり飲んだりすれば3時間くらい使うだろう。そうすると残時間は9時間である。私の場合、実際自分で自覚的に有効利用している時間は3時間くらいだと思う。

 

そうすると、年に1000時間しか何かをしてないわけで。10年で10000時間、あと50年仮に生きるとすると、5万時間が私の残された時間である。(´・ω・`)少なくね?1000本のゲームをプレイしたら終わるレベルである。

 

まぁ、仮に一日16時間活動可能な人がいるとして、その人の残時間は284800時間である凡そ30万時間だ。その差6倍である。

 

…時は金なり

 

最近は15分単位で生活している。発達障害の思考はよく飛ぶので15分という短い周期にすることで、逆に集中しやすくなる。一日に15分活動するとして仮にこれを読書にあてる。一日10分読書する、という活動が昔学校であったが、似たような習慣である。

 

すると

1週間の読書時間は15x7=105=1時間45分

1ヶ月の読書時間は15x31=465=7時間45分となる。本を1冊3時間で読むとすると、月に2冊半読める計算である。1年間に読める冊数は30冊となる。ちなみに一日1冊読む人は365冊読む訳だが_φ(・_・

 

10年で3650冊読み、50年で18250冊読む計算になる。1万8千冊である。案外少ない。

 

まぁ、私の場合、6時間くらいかかることもあるから、そうなると15冊とかになってしまうわけだが。余談だが、Amazonセールで50冊くらい一気買いして積んであるので、一日30分くらい当てないと無くならないのだが…_φ(・_・

 

デフォルトマン(基準とする人間像)を考える

デフォルトマンという言葉が目に入って、その記事を読んだ。記事では、その人は「イギリスの中流階級より上」をデフォルトマンとして想定し、これに劣等感を抱く…みたいな話だった。

 

発達障害に関して使えると思い、この概念を借りてきた。この記事のように特定の階級ということは言わないが、そのときに話している(仮定された想像上の)人物像がデフォルトマンであると定義し直した。

 

そうすると、発達障害者が定型を語る時には、それが抽象的な人物であるとすれば、それは彼の「デフォルトマン」に関して言っているのである。「定型にも色々な人がいる」という部分は大抵省略されている。

 

この時、話し相手の相手側が健常者であるとするなら、彼が言う「そんな人もいるよ。辛いのは君だけじゃないよ」というのは彼の作り上げた「デフォルトマン」に関して言及しているのであり、私の話している「デフォルトマン」に対する言及ないのである。

 

通常は、互いの「デフォルトマン」はある程度、共通する。それは互いに同じ属性を持つ日本人だからである。健常者で右利きで男性で日本語を話し、同年代である等、も含まれる。

 

彼の「デフォルトマン」は私より能力的に同じか下かで人間のていを為している他の健常者である。それは障害を持つ者ではない。彼の「デフォルトマン」には、精神障害者は組み入れて無いからである。

 

畢竟、私と彼との会話の間には齟齬が生じる。私は普通の人というとき障害を持たない私の「デフォルトマン」を語っているのに対して、彼は彼の中の「デフォルトマン」に私を嵌めてしまえる、と殆ど無意識に考えてしまう。だから齟齬が生じる。

 

彼は私ではなく「私のような属性を持った仮想の人物」に関して考えなければならないところを、無意識に放棄しているのである。

 

この時、差別が生じているのだ。重要なのは、互いに「デフォルトマン」に関して語っているのであって真には「互いに関する話ではない」と了解することだろう。

 

私は健常者の「デフォルトマン」を仮想する。

彼は障害者の「デフォルトマン」を仮想する。

ここに議論の前提が形成される。

 

私が定型と呼ぶ時、これは定型の「デフォルトマン」を指す。

彼が私もと呼ぶ時、これは定型の「デフォルトマン」を指してしまう。であれば、それは私の「障害」の話をしているわけではない。したがって、私は彼の言う「デフォルトマン」から外して貰わねばならない。

 

あるいは、彼の「デフォルトマン」の中にその仮想の人物が「生まれながらに発達障害であること」を規定して貰わなければならない。ここに難色を示す人とは話しても無駄である。私を理解して特別な配慮を行う気が無いのだ。

 

「普通の人は◯◯で」というとき例えば「アフリカの黒人の子供」等が脳裏に過ぎる人はいないだろう。「私は違うから◯◯できない」とは「私の中の定型のデフォルトマンでは無い」ということである。

 

彼(定型の他者)は「そんなことはない」というが、彼の「デフォルトマン」に、この時、私が入っていると彼が思うことこそが偽りであり、間違いの元なのである。ここでいう私とは、私自身ではなく、発達障害を持って生まれてきた仮想の人物像の私のような者である。

 

私達はこのデフォルトマンに対して語らねばならない。私と彼が互いにどういったデフォルトマンを見ているのかということが「差別」の瀬戸際であり、相互理解の要の地点なのだ。

 

相手を理解する時には、相手の仮想人物像をデフォルトマンとして想起することだ。相互理解はここでは重要ではない。黒人差別の時に白人を理解しても仕方がない。黒人差別について考える時には「黒人のデフォルトマン」を用意して互いに「差別される黒人の仮想人物像」について共通認識を作ることが重要と思われる。

 

重要なことは、それがいつどこの誰のような人なのか。出来るだけ具体的に細かく要素を追加して、本当に相手の「想像上の人物像」と出来る限り近い人物像を描けているかどうか確認することだ。

 

例えば私はLGBTだからこう考える。と言う時、そこには「LGBTのデフォルトマン」という共通する人物像を描くはずだ。しかし発達障害の時にはこの意識が欠如する。「この人は私とは違うのだ」ということがLGBTという語に込められた意味から察するのだ。

 

発達障害者に対する時の過ちは、ここで彼が「デフォルトマン」とするのが発達障害者という属性を持たない、ことである。

 

彼はあくまでも「普通の一般的人間」を脳裏に描いているのであり、ここに過ちを指摘できる。LGBTを語る際に「LGBTの仮想人物像」を共有しようとするのが本来あるべき「差別」問題に対する姿勢である。

 

 つまり「発達障害を持つ仮想人物像」を共有しようとしなければ「そんな人もいるよ」論になる。それは同情を装った無知を晒しているだけである。

 

重要なのは問題を語る以前に、これから話そうとする話題に、認識の形に、差異があると確信することである。そして、その差異を話題の中に溶かしてゆき、命題に対する自らの共通見解(姿勢)が正しいかどうかを明らかにすることである。

 

LGBTの人間に語る時、私達は相手の立場に立って、自分だったら、と想像してみるだろう。同様に、

 

◯◯の人間に語る時、私達は相手の立場に立って、自分だったら、と想像して見るだろう。この時に、依拠するベクトルが相対的に変わることこそが重要なのである。問題に対して、属性を加えていき、ディティールを出来るだけ盛ることによって、問題と自分の認識との相対的な立ち位置が次第に適当な位置へ動いていくのだろう。

 

この時、動くべきは相手ではない。理論が相手であれば、相手は自ら動かないのだ。学びを考える時には、動くのは自分である。著者との認識の齟齬を埋める作業を行って初めて、自分がどのような仮想人物像を共有しているのかが分かるようになるだろう。

 

相手の「デフォルトマン」を仮定する…これが上手くなれば、相手の立場に立って対話が成立する。一方で、それが上手く出来なければ、対話は同じ目線(論点・視点・テーマ…等)に立てていない以上、成立しない。

 

 

 

 

自己と他者を分けれぬ社会

老後ということを考えると、人は惨めに死んでいくものなのだろうか…と思う。現代社会はそれなりに進んだ社会であるが、途上と言わざるを得ない。色々な問題に対する解決が今の時代のテーマかと思う。ICTの発展により、多くの人のニーズを満たすこと、が求められているようだ。

 

若いうちは、そういうことに考えが向かないから気楽にしているが、老いて自分で何も出来なくなっていく、ということは日々の生活のQOLが減っていくことを意味している。人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という具合に、過去の問題は忘れてしまうものだから、苦難の道の途上に居る時は、その時の辛さ・惨めさ…そういう実は一時の感情が永遠に続くかに思えるだろう。特に老いて、再び賦活することが無いことが分かっていれば、重い荷を負ったまま沈んで死んでいくのかもしれない。最早、希望は無い。

 

そういう死へ向かう時間をどういう気持を持って生きていくのか、というのが人の課題の一つじゃないだろうか。老人の書いた俳句の中にはシュールさが滲んでいる。有終の美を飾ると言うか…朦朧とした状態においても確固としていられれば、それで死んでも良いのではないだろうか。

 

粋の哲学者というのをやっていたが、きっと意気地と諦めの中で死までの過程を生きるのが、イキな生き方なのでは無いかと思う。身体は重く、頭は痛い、目は霞み、耳は遠く上手く聴き取れない…そうした強いテンション(思考が肉体に引っ張られてしまう)と衰弱の中で如何に最後を迎えるのか…

 

迎えるというのは、招くということでもある。出迎えることである。死を出迎えるのだと思う。まだ生きていたかったと嘆くか、そろそろお迎えの来る頃合いか、と思うか。

 

まぁ卑近なことを言えば、それは精神衛生の問題と言えるだろう。イキの哲学の中で参考になるのが、意気地と諦めの中にイキがあるということである。複雑な状況の中でどう意地を張り、どこで葛藤を諦めて耐える決意を持つか…まぁ、そのような感じかと思う。イキというのは老人の書く俳句に滲むシュールさのようなものだろうか。厳しい現実をあくまでも喜劇的に振る舞い乗り越えてしまえるとすれば。

 

閑話休題

 

その前にやっていた番組では今の子が常に他人と繋がっていなければいけないような心境になっていることに対して「一人の時間を大切にしよう」という話をしていたかと思う。今の社会というのはスマホに支配されているのかもしれない。

 

テレワークなんていうのもカメラで他人を監視しあっている(繋がり合っている)。それは翻って言えば「独りで活動する」時間を奪っているのかもしれない。私は人の個性は「一人遊び」の中で発展すると思う。個人的な時間が、私と他者とを切り分けるのである。その中で私はわたし、あなたはあなた、という個の概念が形成される。個人というのは具体性の極地のようなものだ。抽象された時には共通点が関連性を持つが、具体化の特徴は関係が無くなっていくことである。つまり、SNS等で繋がり合い関係を持ち続けている時点で、個に至るような断絶する経験を持てないのだと思う。

 

SNSの問題は常に繋がり合わねばならない状況に追いやられること、自体のストレスより、独りの時間を独りで過ごす、という体験を奪っていることが決定的に人を脆弱化させるように思える。それは個性を剥奪すること…とさえ言えるかも知れない。

 

趣味はと聞かれると流行り事を答えるとか。繋がって、シェアして、Youtuberとかであくまでも他人に見せることで反応を貰うためだけにアクロバティックな/個性的なことをしてみせる…というように「自分だけの世界」を持ち、それを大切にする人が減れば、大衆は没個性化し個人主義は瓦解するのでは無いだろうか…。要するに、他人に媚びる人間ばかり増えるのではなかろうか。それはニ心を持っている、という風に捉えられる。「他人に対する私」ばかりが強調されてしまう。その中で私に対する私は狭苦しいものとなるだろう。

 

事実、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ…みたいになっていると思う。本当は中傷したくても、言うことが出来ない…そういう部分で本心と世論との間に確執が生じる。自身の納得は他者のロジックで上書きされ、自身の言葉で、世の中を理解していく過程が省かれてしまう。

 

本来の流れとしては、失敗を繰り返す中で、徐々に弁証法的に昇華していくと思うのだが、他人から解答が押し付けられてしまう場合には、自己の中で噛み砕く、時間が与えられることがない。それは自分の頭で考える、という経験を奪っていると考えられるのではないだろうか…。

 

閑話休題

 

 

 

 

 

 

 

 

親を語る時、そのバックグラウンドを考える

発達障害者にとって、多くの親は毒親であろう。カサンドラでそうなったのか、親にも発達障害のような性質があったのかは分からない。

 

ただ現在において発達障害を問う時に、親に対する私達の非難は正しく機能しているだろうか。

 

私の親の世代は、19xx年の生まれである。だから、19年の後半辺りで成人しているわけである。そうすると、発達障害に関する情報は手に入らない。それが表に出てくるのは日本だと1999年頃の話である。

 

現代のように早期発見と養育でサポートするという時代では無かった。また、そうした常識も知識も無かった。自閉症というのは知的障害を伴うものがメジャーだったのではないだろうか。だから、発達障害は固い人、とか奇特な人という感じの「変わった人」として認識されていたのではないかと思う。当時は同調の時代で、みんなが中流階級になれると考えていて、年功序列が強く、少々使えない社員もそれなりの場所が与えられたりしていた。

 

それでも自殺率は高く、その中には同類が居たであろうことは想像に難くない。その時期の引きこもりというのは今よりも厳しい世間体に晒されていただろうし、世紀末的な空気も世の中にはあった。

 

けれど、それは一部の人の趣味であって大衆は右肩上がりの経済的成長と変わらない経済世界を信じていた。だから、将来は家庭を持ち、子供を作り3世帯住宅を作り子供に介護させ…という感じの家族観・人生観があったと思う。丁度、私が学生の頃に、就職氷河期とか右肩下がりの経済とか核家族化と言った概念が出てくるのである。

 

それはつまり私の親の頃の教育では無かったものである。それに何れにせよ、私の親は高卒である。当時は高卒で就職列車に乗り、サラリーマンをやって、子供は大学に行かせよう、みたいなノリだったのではないかと思われる。

 

将来に対しての考えは甘く、現実がそのまま続いていくことを幻視していたから、子供は一姫二太郎が良い等という絵空事を本気にして、家族計画を立てて、それなりに子供を育てようと苦労したが、結局その子供は発達障害で、普通に育てることは難しかったわけである。

 

過去を鑑みれば、そこには試行錯誤というかまぁ苦悩と戦いの日々があったわけである。けれども、例えばペニシリンが無い時代に、免疫系の病気に掛かるようなもので、解決の糸口を掴むことは容易ではなく、結果として厳しく躾ける、とか、愛情を注ぐとか、民間療法のようなレベルの対応をしたわけである。

 

その辺が毒親という所以であろう。過去の所業を許せないと思いつつも歴史的背景から已むを得ないと考えるのもまた正しい了解であるように思える。功罪という言葉があるが、まさに何れかと切り離すことが難しい問題である。

 

結局の所、私を救ったのは親の愛ではなく、時代の進歩と医学の進歩…そうした外的要因である。たまたま発達障害に関する進歩があり、私が発達障害だと感じて受診し、そうだった、という話である。

 

要するに、他者を計りに掛ける時には、その文化的背景も勘案しなければ誤解するということである。体罰が是とされてきた時代と現代とではその常識に開きがある。モラハラパワハラは最近の概念である。つまり過去には罷り通っていて、だからこそ、個々人に対する同調圧力が強く、パーソナルな問題は内に秘めたまま吐き出すこともままならなかった。だから自殺者が多かったと考えられる。

 

現代は科学においてもモラルにおいても随分進歩した時代であることをまず根底に置かねばならない。そのうえで過去に遡行した時に、現在の常識が一つ一つ欠けて行った時に、どのような社会像が浮かぶのか、ということが重要である。

 

どのような社会常識の中で生きてきたのか、ということが、その時代に生きた人を理解する上で大切な前知識となる。勿論、自分の親等に関しても、現在と過去を比較する中でどのような展開をして今の形にいたったのか、という想像力を働かせることが重要である。

 

ナチスが政権を握っていた頃、精神障害者は全員ガス室送りだったと聞く。その頃の常識と現在の常識には差があり、それに関する想像力が無ければ、その時代の人の思考をバカにして終わってしまうかもしれない。一方で限られた情報の中から最善を尽くそうとする人々の苦心もその中には顧みられるはずである。

 

人間を理解したいと思うなら、歴史を紐解く必要があるだろう。