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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

黒の魔王 感想 途中 550話前後?(愚痴)

とりあえず、フィオナ要らないな…と( 一一)

 

初期は正義感と倫理観が多少あってよかったんだけど、魔女の加護を得るために、それらを捨ててキャラクターとしての芯が無くなったと思う。

 

クロノのため、と言いつつ、結局終始自分の欲望のため、という風に見える。ストーリー上、サリエルを顎で使い、クロノも物扱いで奪い合っているように見える。

そして、クロノは、なぜあからさまにサリエルを奴隷扱いするフィオナと恋人関係を続けようとするのか(=_=)普通、引くわ。

 

「クロノという物が無ければならない」という感じで、同時に他者を廃絶する。色欲に囚われた時にリリィが死んでいたように「自分とクロノ以外は世界に必要無い」という神経なので、クロノというキャラと合わない。

 

にも拘らず、なぜかクロノはフィオナと付き合い、愛しているとか、君だけを愛していると言えるといいな、などとモノローグしているので気持ち悪い。

 

クロノから見て、フィオナは面倒な娘としか見えないと思う。拒絶してしまったリリィを放置して直後にフィオナと付き合い、肉体関係を得る、とかありえない( 一一)

 

サリエルを抱いた以上にリリィを裏切ってると思う。その辺りのシナリオが矛盾しているし、フィオナに魅力を感じなかったのでストーリー上、サリエルが虐げられているだけ、に見える(=_=)

 

なんか、前にも書いたようなデジャビュを感じるが…。

 

ネルはクロノでオナニーしてただけで、他の罪状も無く、ヒーラーとして人助けしまくってるので、同情の余地は十二分にあると思う。

 

リリィはホムンクルスを操るという風に落ち着いたのでまだ忌避感が薄いし、クロノの意に沿うように賢明な様子が見えるのでまだ好ましい。

 

フィオナは魔法の威力以上に無神経さ、他者への関心の無さが、彼女を孤独たらしめているし、自業自得だと思う。だからこそ、私はフィオナというキャラが嫌いだし、フィオナを愛しているとかモノローグで言うクロノも「いや、おかしいだろ」と思い、嫌いになる。

 

リリィと再会後にリリィの気持ち(異性として愛している)を知ってから、直ぐにフィオナと肉体関係を結んでしまったという方がサリエルを救うためにHした件よりも無神経に過ぎる。

 

フィオナは恐らくメインヒロインの一人だと思われるので、ヘイトが集まるネロなんかより、余程、作品を貶めていると思う。多少の正義感や良心は失うべきでは無かった。

 

ネロは王族という立場さえなければ正統派主人公で描写も格好良いと思う。あからさまに権威を自然に振り翳している感があるのが癪というだけで。ヒールキャラとして描かれてると明らかなのでそうイラつくことは無い。

 

性欲を爆発させているネルと比較してフィオナの何が違うと言うのか…(苦笑)お前も発情期だろ、と( 一一)フィオナは意図的にクロノを思考誘導している点で印象は悪化する。

 

シナリオに合わせるためにクロノが馬鹿になってしまう点もいただけない。クロノ思考停止である。個人的にリリィにはフィオナを蹴散らしていただきたい。

 

リリィを拒絶したように、フィオナも拒絶すべきだろう(´-ω-`)でないと筋が通らないと思う。その辺りが気持ち悪くて後感が悪く、作品に対する評価を落とす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異世界系の死に方の1つ

孤独で惨めなニートか底辺ブラック社畜が転生して、

家族と子供と孫に恵まれて、それなりに満足して死んだ(end)

 

という「なろう」作品を少し読んだけれど、なんというか、20世紀的幸福論かなぁ、みたいな。

 

そもそも孤独で惨めなニートあるいは底辺ブラック社畜という設定が、最早古いのかもしれない。そして、大抵「家族と子供と孫に恵まれて」という。

 

端的に言うと「コミュ症が非コミュ症になる」

あるいは「底辺が(底辺の想像上の)リア充になる」

 

というテンプレの物語であることが多い。そのリア充像というのが、「家族と子供と孫に恵まれる」ことだったりするわけで、その「それがあれば幸せ」と思う条項が、なんか古いなぁ、と思う。

 

発達障害者と関連付けて考えてしまうが、僕らは基本コミュ症なので、友達・家族・伴侶・子供に恵まれて、自分の役割を上手く果たせていて、過剰に人から必要とされており…云々という、胸焼けしそうな幸福像を描いているような気がする。

 

私は障害者として孤独であることを良しと思うので、コミュ症にはコミュ症の幸せがあると思う。そして、コミュ症の感性というのは、非コミュ症の感性とは相容れない。

 

友達・家族・伴侶・子供、云々はコミュ症においては祝福では無く呪いになる(かもしれない)。その場合、その性格を持った人間の幸福の条項は、そうでない人間とは異なる。

 

「他人と同じものを持っていれば幸せ」とは限らないということである。少なくとも私にとっては、友達・家族・伴侶・子供、云々は普遍的にそれによって幸せとなる条件では無い。

 

こうした物語の大抵の矛盾は、主人公が「友達・家族・伴侶・子供」と言った他人によって幸せになり得る人格で無いにも関わらず、それを得ることを最終的な物語の目的としてしまうことにあると思う。

 

底辺転生系の彼らの多くは、他人を幸福のために必要としていない。しかし、そのことを彼ら自身が分かっていない。発達障害者も他人を必要としないにも関わらず、他人が必要なのだと思い込んでいる節がある。

 

少なからず僕らにとぅてライフラインとしての繋がりは必要だとしても、情緒的交流は労苦に過ぎないのかもしれない。

 

だから、私がコミュ症が多くの(幸福的な)人間関係を築くハッピーエンドに不快を覚えるのは、彼らが情緒的な交流を望んでいないことに依るのではないかと思う。

 

まぁ、その一つの証明は大抵の主人公が自分一人で大体の問題を解決できるほどの能力を有していて、無双できることだったりする気がする。

 

彼は助け合う必要が無い能力を有するが、転じて、つまりは一人で何でもできる能力が欲しい、ということであり、あるいは「誰にも頼らずに完結したい」と望んでいるということである。

 

彼にとって他人は役に立たない。つまり、必要無いのである。

別に全ての物語がそうだとは言わないが、とりわけ底辺の人間が成り上がる物語の多くは「主人公は自分一人である程度どうとでもしていける人間になってしまう」。

 

協調を描く描写は薄いものが多いような気がする。仮に最終的に「家族や友人、子供に囲まれて幸せな人生でした」とする場合、その関係性に対する主人公の関心をメインに持ってくるべきだろう。

 

それは他者とのコミュニケーションに対する見解等、そういうものである。けれど、その描写が少ないのに「最終的に何故か、それを持っていたから幸せでした」というのは腑に落ちない。

 

『無職転生』なんかは「スプーン乗せた生卵を落ちて割れないように道を進み続ける」みたいな話で、生卵を割ったら絶望しかないのである。そして、生卵自体に価値があるというよりは、生卵を割ったらダメなのだ、という強迫観念に縛られている風に思える。

 

敷かれたレールから一度でも落ちたらダメなのだ、とかそういう風なヒステリックさを感じる。それを以てして、一つも取りこぼさない言い訳を「ご都合主義」というタグに張り付けていたりするが…。

 

私的には、そういう形で「幸せになりました」というのは、つまらない、浅い人生だなあ、という感じである。艱難辛苦を噛み絞めて、結果として、どう思ったのか…みたいな結末なら未だしも、噛み絞めたらば『シンデレラ・ストーリー』になってしまうのは子供騙しと思う。

 

まぁ、一部の富良野作品みたいに皆殺しにしろという訳では無いけれども、荒波に飲み込まれている割に主人公の周りだけ被害無さすぎでしょ…という感じである(=_=)

 

特に底辺主人公であるほど、完璧なご都合主義ストーリーをやってしまうと、どんな痛みも失望も許容できないセンチメンタルな人間になってしまう気がする(=_=)

 

=「大切な人間はみんな守るんだ!」と言って、物語上もそうなるわけだが、それは「大切なものを失うことを許容できない人間」でしか無くなるわけで。あるいは「失敗を許容することができない人間」であることを語ることになる。

 

底辺系の人間のやり直しにとって、完璧の反対は、失敗への恐怖である。失敗体験を重ねた人間は、成功を願うより、もう失敗しないことを願う。その結果として、行動が抑制され、精神が抑圧され、行動や考えに影響を及ぼす。

 

そういう人に対する大雑把過ぎるカバーストーリーが「何をやっても失敗しない」という主人公補正のついた『シンデレラ・ストーリー』である。

 

まぁ、だから、底辺系主人公を主役にする場合、ストーリー上で更生させねばならない、という難しい手間が掛かるし、それを書けてると思う作品は少ないんじゃないかと思う。

 

個人的に好きなのは、悪役令嬢系で、失敗人格に成功人格がとって変わって、逆転劇を起こす、という系の物語である。まともな人格者が性格破綻者に転生して取って代わることで「更生させる」という手間が省ける。

 

劣等感だらけの主人公が馬鹿魔力で他人から信頼を勝ち得てハーレムを築くよりは、説得力がある、というか( 一一)

 

その、まともな人格者ならば、別に嫁や子宝に恵まれても「ふーん」って感じだけれど、コンプレックスだらけの劣等感のそこに居る人間が(幸せな)ハーレムを築いても「そんな馬鹿な…」って感じである。

 

大抵、なんかの大家族みたいになるのが目に見えた話であり、根本的な頭の悪さはどうしようもないと思う。

 

そして、だからと言って「次こそは人並みな人生を」と言って、発達障害者を転生させたところで、発達障害者なのでどうしようもない。

 

コミュ症をそのまま転生させるのと同じで、発達障害という人格を転生させても、それは発達障害を抱えているので、その時点で障害者である。惨めな人生だったと語る主人公は多くの失敗体験なり心的外傷を抱えて異世界に行っている訳で、その病気の根本的な治療がなされなければどうしようもないと思う。

 

「馬鹿は死ななきゃ治らない」と思う。そして、馬鹿を治そうとする話は読んでいてあまり面白いものではない(苦笑)

 

底辺救済の物語をまともに書くなら、それは読んでいて苦痛になるだろうと思う。そして、大抵の場合、まともにやっても、そんなには報われるわけも無いのでエンターテインメントとして、あまりパッとしない気がする。

 

「そんなに報われないでも幸せだった」のハッピーエンドのささやかなラインだと考えられたものが「家族に見守られて死んだ」みたいな時代錯誤な観念だったりするのだろう( 一一)

 

「家族に恵まれた」とか。まぁ、その手の終わらせ方は言い訳臭いラストだなあと思う(笑)

 

なんか研究者が研究を突き詰めて、ここまでは出来たけどもう寿命か、やれやれ…みたいな最後の方が好きだな。

だいたい、家族か伴侶かに看取られて、人間関係に恵まれた幸せな人生だったなーとか、物語的に面白味が無いですよ。なんか英雄みたいな活躍したとしても、そういう感想で死ぬわけじゃないですか。

 

「一般人か!」ってツッコみたいわ。

 

人生で色んな偉業を達成してきた主人公に目指すべきものとか通すべき筋とか人生の目標とか、大抵掛けていて、「孤独じゃ無い悔いの無い人生」とか大雑把な希望が最初にあって、最終的に「家族がいたので幸せでした」とか凡庸な感想で終わるんですよね…。

 

その割に魔王とか邪神とか倒してるわけじゃないですか。もう少し、立場に見合った違う感想あるでしょ。みたいなね。

 

それこそ研究者的な心残りじゃないけどね。なんか「家族が」云々というのは最後まで底辺臭が抜けてないんですよね(=_=)英雄になって、ハーレム築いてまだそんなこと言ってんの?みたいな…。

 

結局、それって、自分、三種の神器とか持ってるから幸せだよね、みたいな感じで。「家族」というアイテムを持ってるから「自分は」幸せだった、という話で。

 

なんか、それなら童貞で不幸なやつは、風俗に行って童貞捨てた瞬間に死ねば幸せな死に方でしょ?ぅて感じ(´・ω・`)

 

まぁ、そういう雰囲気の作品は拙い気がするな。

個人的には、復讐系とかも嫌いでは無い。あと人外転生系とか。

女主人公も結構好きですね。ハーレムになりようが無いから。

それ系で考えたのだけれど『ドラえもん』とか男たちの中に紅一点の静香ちゃん的人物がいる作品って、逆ハーレムですよね(´・ω・`)

 

あぁ、静香ちゃんって逆ハーだったんだなぁ、と思って、その視点で『ドラえもん』を見てみると面白かったですね。

 

リアルな話をすると、家族に見守られて死ぬ人って普通に減っていて、病院とかで死ぬのが普通なのかなーって思いがありますね。あとは、急死したりとか。老衰って死因は殆ど他の要因に因るんじゃ無かったかな…。

 

 

それにしても、龍、魔王、邪神とか安売りされすぎじゃないかな。それと人間強すぎ(´・ω・)剣で龍とか倒せるわけ無いでしょ…。そういう意味でも人外転生は有りだと思うんですよね。

 

こう…ゴジラに人間が真っ向から挑む感じの話が多いですよね。そこはもう同じスケールにならないと話にならないんじゃないかなー?みたいな。

 

いや、でも核ミサイルとか撃ち込むイメージなのだろうか…。

 

冒険者ギルドとかある場合に、A級でなんか大陸破滅させる怪物を倒せるとか、おかしくね?って思う作品があったり(´・ω・`)

 

そんな世界でよく村人とか畑耕して生きてるなぁ…って感じですね。長期的視点を持って生きる気になれないでしょ(゜-゜)

 

フェンリルとか、結構、学校の裏山にいるレベルでしょ。

 

まぁ、ジュラシックパーク的なティラノサウルスクラスを龍種と考えると殺れなくもないのかな…( 一一)マンモス狩る感じで。

 

海だと、シャチとかかな。

 

まぁ、そう考えるとジュラ紀に中世を持ち込めばいいのか。それで、ちょろっと魔法設定しとく、と。

 

魔族=1ティラノ。

人族=1/10ティラノ。くらいに考えると落ち着くだろうか…( 一一)

 

…農村とか無理じゃね、と思うな。そんな世界じゃポイズンでしょ。人類を壁の中に隔離しないとダメだと思うなぁ。

 

いや、でも。邪神ってなんだろ…魔王は、まぁなんか生物枠に収まるとして、なんで邪神とか倒せてるんだろ(=_=)倒せない作品もあるけどね。「人から神になりました」って展開多いですよね。

 

「永遠の寿命を得ました。めでたし」って言われてもね。なんか、その後、修羅場だと思う。

 

もうね。邪神とか出てくると、村人とか冒険者とか何だろ?ってなるから。邪神に勝てるような人がすぐ傍でフレンドリーな感じで話しかけて来たら嫌だな(=_=)

 

ほら、不発弾持った人が傍に居たら嫌でしょ。いくら強くても、ちょっと強すぎて引く。そんな人に話しかけられる人間(村人とか)のメンタルはかなり強いと思う。

 

もう星とか銀河とか壊せるレベルの人は地球にいちゃいけないと思うんだよね(=_=)

 

そう考えると主人公とか敵のレベルは常識の範囲内に収めて欲しいな…とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異世界転生系の不満

『魔導書を書く人』という作品を読んだが、気になったのは、主人公が拳骨によって矯正されたので、教え子にもそうする、という態度。

 

体罰教師の考えと一緒である(=_=)「自分がそうされて良かったから他人にもそうする」というだけの筋の通らないことをしている。

 

一昔前の道徳観というか。そこから進歩しない。『先生』になろうとするのに、その辺りは描かれていない。作者の技量的に書けない領域なのだろうか。人を頼れというのに、最後まで自分だけで何とかしようとし、かつ家父長制的である。

 

その辺りは『無職転生』と似ている。

 

私が思うのは「引きこもりや脱落者が転生して勇者になる」という物語の多くの引きこもりや脱落者は「発達障害的」でそれ故に「心を開く」行為では救われない。にも拘らず、物語的には心を開いたから友達が出来て、改心したから超強化されて、悪徳貴族以外の誰からも好かれる人間になってしまう。

 

発達障害者のためのシンデレラストーリー」みたいな感じであり、要するに子供騙しであり、そこに気が付けば興醒めになる。

 

コミュ障に必要なのは「心を開く」ということでも「他人を信頼する」ということでも無い。

 

「それが出来れば苦労しないよ」というのが当事者の想いだろう。その辺の乗り越え方の説得力が無い作品だらけ、というのが割と転生もの好きの私の感想である。

 

過去にも書いた記憶があるけれど、一般人か天才が転生してチートするのが最も説得力がある。要するに「人生やり直し系異世界転生物語」は私は好きじゃないのだ。

 

それなりに優秀で道徳観念もある人物が転生して異世界物語に巻き込まれる、というなら私も「いいかな」と思うやもしれない。

 

敢えて、脱落者を失敗作と呼ぶとすれば、転生して過去の記憶を持つことは呪いだろう。生まれ変わりたいと思う時、全てが根源的に解体されなければならない。それ故の死というのであれば救いもあるだろうが。

 

閑話休題

 

それにしても、なぜ異世界人は異世界を日本風にしようと必死なのか…(笑)流行の「日本サイコー」系本の系譜のように、現代日本AGEである。

 

ある作品では、異国人に「寿司」を振舞っていたが、なぜか食べる人全員が「素晴らしい」と言う。私は寿司が嫌いだし、生食に忌避感を感じる人もいる。ましてや異世界だというのに、全員が「素晴らしい」と感じるわけないでしょ(苦笑)

 

他に「酒」とか。作者(主人公)が好きなものは異世界人全員の舌に合わなければならないのだろうか(=_=)

 

 

 

 

 

 

 

文字とは芸術である

以前から漫画家は字が上手だな、と思っており、それは何故かと言えば、彼らはイラストをやるからであろう。

 

美術とは要は望む形にモノの形を整えること、であり、美術家はそうした行為を修練するために上手い。故に文字も又綺麗になる。

 

逆に言うと、そうした「形」を意識しなければ、文字が下手だということになる。学者にはそのきらい(傾向)がある。彼らは思考を写す媒体としてノートを取るので、形には拘らない。己が読めれば良いのである。

 

文字が上手い人というのは「形」を重視しているので、逆に言えば、文章の内容に割く思考の割合は少ないのかもしれない。つまり、見やすく上手いノートを書く人というのは、授業内容に対しては没入してはいない可能性がある。

 

ノートを取る行為、というか文章を書く行為は面白い。それはPCでブログを書くことでは無く、筆記で紙に書く行為である。

 

紙に字を書く行為は面白いのである。それをITで代用しようという考えがあるが、タイピングは私には筆記よりも味気ないように感じられる。

 

無論、タイピング自体の面白さ、というものもあるし、事思案するために書くのならばタイピングの方が優れている、と思う。それは思考スピードと筆記の時間差が短いほど思考の流れを疎外しないためだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑感 物事の見方

何か一つの概念に正解を見出そうというよりは、何かの物事の距離を測るように心掛けると良いのかもしれない。

 

「中庸」というが。これは「二元論の真ん中」ということでは無く、問題と距離を置く、距離を常に測るような立ち方という意味で使いたい。

 

現実は常に選択と決断を求められて、私のような人間は動けないのだが。それでも、やはり常に測って行きたいように思う。だから、他人にもそうせよ、とは言えない問題である。そうすると他人も私のように動けなくなり困るかもしれないのだから。

 

これは厄介な私の特性かもしれない。だからそんな問題の無い他人は真似ることは無い。

 

信じるというのは一時的なもので、とりあえずそう決めて動くという風に使うことが多い。あてを付けて、確認する。

 

あてが外れれば、それは調整して良い。生に於いてはそのように探っていく作業が多い。日向ぼっこをする猫が太陽の動くのに合わせて寝る場所を移るように、何事かに於いては一か所に留まることは適当では無い。

 

そういう類の物事を我々は見過ごしていることが多く、結果として行動が的外れになってしまう。最早、太陽が照っていない場所で日向ぼっこを続けているということがとても多いようだ。

 

そういう行動に関して良く気づき、適当なものへ評価し直していくようにしたい。

 

現実は答えさえあっていればよい、ということがあるが、私は式の意味の把握や過程の考え方や、その合理性を注視したい。

 

術理の把握である。型は把握のためになぞりはするが、最終的にはカラクリを理解したい。正直、そういうことへの適性はイマイチであるように思うのだが。

 

 

 

 

 

多様性と個人差

個性には能力差があり、所謂、低能、馬鹿、凡俗、阿呆、変態…等々の比較されて劣っているとされる個性もある。

 

それぞれに何か光る部分もあると言うのは慰めか世辞だろう。もしもあったらいいね、である。

 

多様性の話になると、そうした一芸を持たないと思う自信の欠落した人間が無制限の自由を振りかざし自分の弱さを正当化した挙句、価値があるも無いも無い、等しく全て素晴らしいと言え!ということにする。

 

みんな違ってみんないい

 

だが、いい→良いにされてしまうわけである。この「いい」は違うけれど、まあ止しとしよう、という「いい」であると受け止めた方がいいのではないか。「もういい」という時の「いい」である。

 

そんなつまらないことは許せ、ということだ。容赦しろ、と。人種においては全て保護し人道的に扱うという風に前提を置き、人によって最低な人間もいるが何とか保護しなさい、という風に解する。

 

まぁ、私はだから人権を守りつつ外へは出さないために刑務所があるという風に思うし、死刑には反対する。

 

犯罪者の全てがそうだとは言わないが、人によっては劣等なのは仕方ないことだと考えている。多様性というのは優劣を含む。個性には優劣がある。だから素晴らしく無い多様性というものもあるだろう。その中で他人の人権を脅かすものは調整されるだろう。どの人にも人権があるからである。

 

最低限の人権の保障は、文化的で云々というものであるとして、それ以上の文化的な栄華的なアレが富において行使し得る自由だろう。

 

人間は自分自身を自然公園において保護するようなことをしなければならないように思う。再帰的であるというか、両義的であるというか、そういう存在だろう。でなければ道徳もへったくれも無い。

 

羊飼いであると同時に羊でもある。羊飼いであれるかどうかは人に依るだろうが(=_=)子供の頃は羊で大人になればだいたいは羊飼いをやるが老人になれば羊に戻る。人生を通して羊である者もいるだろう。羊飼いでありながらある面では羊である者もいるだろう。

 

とまぁそんな具合である。人間は動物であり、かといって完成された動物では無いのだからそんなもんだと思う。その動物を分類すれば色々な種類に分けられるんだろう。なにせ73億人もいるそうだから。

 

てか多すぎだろ(=_=)さすがに計画的に減らせと思うね…。

 

みんな違うが容赦しろ、という話である(=_=)

わけの分からないごった煮みたいなもんなんだから…。

 

犬は犬種で性格が違うが、人間もそのようなところがあると思う。だから中には相性の悪いもの、劣ったもの等あるだろう。理想としてはそういうものに整理を付けて、容赦できるようにシステムが整理されていくべきなのだろう。

 

現時点においては、私の語るような理想に遠いことは目に見えて分かる(=_=)私は、チワワもヨーキーも器質的にあんまり好きじゃない。けど、どこかでそういう犬でも生きていければ良い。というか生きていけないなら増やすなよ(>_<)

 

その辺もまぁ結構闇が深いっぽいが…(=_=)

 

最終的に性格が穏やかなものに組み替えられるとか、淘汰されるのは仕方ないが、現状において生あるものは…という話。まだ生まれる人間の優劣についてまで運を天に任せてサイコロを振れとは言わない(=_=)その辺はどうすべきなのか考えられもしないし。淘汰すると文明の進歩を抑制して滅ぶだろうか?その辺が良く分からない。

 

ただ生きている人間については可能な限り人権が尊重されるようであって欲しい。それを個人でやれとは思わないし、仕組みとしてそう流れるようにして欲しいという話である。

 

個人の話としては、人間に能力差が広くあることを認識した方が良いと思う。性格にせよ知能にせよ運動神経にせよ何にせよ。人間について詳しくなるというのは魚類について詳しくなるくらいに思った方が良いと思う。

 

そのくらい人種に精通するには広い領域を網羅する必要がある、という風に考えた方があてが外れないように思う。自分個人の経験を感性を誰にでも当て嵌めて何でも理解できるはずだ、と簡単に考えられがちだが人間の幅はそのように狭くは無い。

 

他の哺乳類であるとか異なる種族を学ぶ際のように人間を、他人について学ぶ必要がある。

 

自分という人間あるいは他人という人間は、人間の一個体である。だから同じじゃ無くて当たり前だろう…(=_=)差別してしまうのも当たり前だが個々人は人権において暴力から守られねばならない、と言って私は道徳上の「してはいけない」理由を付ける。

 

平等で対等だからではなく、人権において。動物には動物の権利があるように人間には人間の権利がある、ということである。人間は他人同士平等でも対等でも無いが人間として生まれてきた時点で人間として扱われるべきであり、そこには人権が発生する。

 

愛玩動物を扱う際に動物の権利(アニマルライツ)を守らねばならないように、人間を扱う際には人権を守らねばならない、と考えれば良いと思う。

 

そうであれば、何故人を殺してはならないのか、という問いには、他人の人権を侵害するからと答えられるだろう。そうすると同意においては安楽死も認められるのかもしれないが…(=_=)意志の確認というのは鬱病に見られるように難しい問題である。

 

自分の人権が脅かされるとき、じゃあ他人の人権を侵害していい、という訳では無く、両方の人権が守られるように手を打つことが適当だろう。正当防衛による暴力等は人権侵害の状況的な情状酌量の余地の問題だろう。

 

能力差はあるのが当然だし、劣るものがあるのも当然だし、見苦しいものがあるのも当然だし、しかし人権において自分も他人もみだりに脅かされるべきではない。

 

ただし、物事の優劣というものは存在する。

 

私の意識においては、

 優れたものは優れている。劣っているものは劣っている。見下されるものは見下される。差別されるものは差別される。称揚されるものは称揚される。否定されるものは否定される。

 

そうした評価を下すことは良いだろうけれど、私は他人の人権には配慮しなければならない。

 

こう書くのは、思うことすらいけないのだ、と言う人もいるからだ。見下してはいけない、差別してはいけない、否定してはいけない…という人がいるからである。

 

私は個人においては、そうしても良いと思う。但し、社会において、それが見下した人の、差別した人の、否定した人の人権を脅かした場合において問題にされるだろう(=_=)

 

意志表明が、言葉が下手な人は他人の人権ごとぶった切りそうで、あるいはぶった切って炎上し、何も言えなくさせられるが(=_=)

 

炎の魔法剣の使い手だね。

 

実際、その辺は伝え方はとても難しくなってきているという風に思える。この時点では私も何とも言えない。婉曲な言葉で、皮肉を用いて、背中から刺すような人もいるし(´・ω・`)バックスタブはクリティカルと補正ダメージ入るんですよ。

 

そういうのは自分の意見の伝え方じゃなくて人権シールドを貫通するか無視して攻撃を加える方法ですね(´・ω・`)

 

ばれなきゃ人権侵害しても構わない。という構え。みんなやってるパナマ理論(=_=)

 

そんなものは認められるわけないじゃないですか…(゜-゜) 

 

 

本好きの下剋上 569話 展開予想 感想

ゲオ子とランツェナーヴェがグルで、中央騎士団長もグルと。

ディートリンデは甘い香りを嗅がされていたので殺処分だけは免れるかもしれませんね。

 

ランツェナーヴェの姫の扱いが酷いようで、フェルディナンドはキレてましたね(=_=)無知蒙昧な人間嫌いだから。

 

ディートリンデ主観で見ると悪気が無いのが分かるから、多少、同情はしてしまいますね。無能が勘違いして権力を握るとどうなるか…という。無知な正義感を振りかざした結果。

 

とは言え、感想欄はディートリンデ憎し!ざまあ、死ねって感じで、うわぁ…と思いますが(´・ω・`)無能が無能を無能だとディスってるよ…。

 

なろうの感想欄については「だいたい民度が低いので」作者はそこに引っ張られるべきじゃ無いんですよね…(´-ω-`)

 

民度が高ければ話は変わってくるのですが…。

 

だいたい今回の話でカードは出揃ったんじゃないでしょうか。事件編の前の足場固めって感じですよね。