LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

アンチ八日目の蝉レビュー

まだ最後まで読めて無いんですが、登場人物全員頭悪すぎだろ…と。理性的な大人が登場してこない時点で、この小説を読む気が失せる。人気俳優が不倫した時みたいに、好感度が下がれば返ってくることは難しい。主人公の心理も、娘の心理も、その親の心理も大人としての責任や義務、誠実さから遠ざかりかけ離れており、俗悪的で気持ち悪い。なぜこんな小説が評価されてるんだろう…。万引き家族が映画化されるようなものか?私は貧困だろうがなんだろうが、万引きした時点でそんな人間は見限るわ。

 

やり直しの中に成功が顧みられる?それともガチャに外れた人の寂寥を描きたいの?

 

男女の悪い部分をごちゃ混ぜにしたような内容である。不倫や殺人、犯罪やヤクザ、下町の人情。そういうものを描いた作品は全て碌でもないと感じる。なぜ、そんな作品が評価されるんだろうか。意味が分からない。私はまともな神経を持った登場人物を求めているだけである。愛という感情は理性によって統制されるべきものであることに違いないと私は思うが、この本の登場人物たちはこぞって理性を捨てるために躍起なようだ。ついて行けない。

 

「大人」といえる、そのような人物が登場する気配が無い。一体作者は何を書いているのか。平易な文章は読みやすいと言うよりこの作者の言語化能力の限界を示しているように思えてならない。フェミニズム的にこれだから女は…と感じてしまう。現状私から言わせるとこれは「太陽が暑かったから人を殺した」みたいな内容である。全ての登場人物が自己の感情や欲望を剥き出しにしていて、それが叶うことだと信じていることに人間性の幼稚さを感じる。

 

こんなことは普通の社会ではあり得ないことである。そんな世界観が気持ち悪くて、私は受け付けないのだと思う。

 

まぁ、きちんと批判するために最後まで読み通すつもりではあるが…

 

で読み通したわけだが、特に評価が変わるわけではない。碌でもない家族の中に赤ん坊を突入させて育てようとしている娘に対して「それは地雷だからやめろ」と思う。金子みすゞ的な「全部違って全部いい」になってしまっている。全部いいのは「どうでもいい」「どうにでもなれ」ってことであり、結果を考えることからの放棄という無責任であり、登場人物全体に視られるもので、著者の心理が反映されているとしたら、まぁ、そういうことなのだろうと思わざるを得ない。

 

「要するに自分は禄でもない人間だが、それこそが人間である」とか言いたいのかもしれないが、私に言わせると「人間の一部は碌でもない」が真である。決して「全体が禄でもない」のではない。そのため「人間は碌でもない」に対する共感を貰いたいとしたらこの著者と私とは感性的に合わない。

 

小豆島に行った時に、母との記憶が鮮明に思い出され、自分が彼女から十分な愛情を受け、真に母と呼ぶべき人間だったと理解した…、みたいなことを情緒ある表現で書けて最終的に元母の元で子どもを育てるとかになれば感動したかもしれない。

 

最後の方の感想は「明らかに文字数足りてないよね?」って感じである。その後のことを考えてみても、碌でもないだろうなぁ、としか思わないな。それが現実であるとして、こんなものを読むことに何の意味があるんだろう?

 

私は他人から肯定されることの無い人間でありながら、特にそれを何とも思っていないので、他人から肯定されて救われる、というのは意味が分からない。そうすると、今度は、その他人に依存してるだけ、である。女性はどうもちやほやされることで自分の価値を求めたがるとかそういう話なのか?

 

愛されて育ったにも関わらず、リカの考えはあまりにも同情の余地が無く救いがない。その本当の家族の救いの無さを考えても、それと対比して、4歳以前の自分は「本当に愛されていた」と気づくべきところではないだろうか?

 

それを「犯罪者は人として許されない人間」と切って捨てるのは、作中で不倫が擁護、あるいは不倫が切っ掛けであることを考えると、やはり稚拙な考え方である。件のファイルを読んで人間として考えるならば、主人公には同情の余地が多分にあった、ということである。読者として求めていたのはリカがそうした主人公の姿を発見することであって「そんな人間」と切って捨てることではなかったはずである。

甘いものや脂っこいもの

一日の摂取カロリーが1400kcalくらいだとして、スーパーで売ってるカツ丼や他の弁当を買った時のカロリーが1000kcalくらい。セブンイレブンでも上げ底容器批判されてるけど1000kcalくらいの弁当は多いでしょ。弁当はカロリーで見たほうがいいなと私は思うんですが。そうすると殆どの弁当は買えなくなるのだが…。ローソンの唐揚げ弁当(たまにしか出会えない)は550kcalくらいで美味しいんだけど、からあげクン好きだからすごく迷う。

 

あとヤマザキのロールケーキね。最近また売り出すようになってきたけど、1本で850kcalくらいするじゃん。私はカロリー爆弾系食品は封印した。

 

物価高もあるけど、買い物する時は、安いか高いかだけでなく、kcalが低いか高いか見た方がいいですね。

 

 

マチネの終わりに

ちょっと酷い衝撃を受けて少しずつしか読めない。二人の絆のすれ違いが、恣意的過ぎるし、全員が裏で糸を引いていたとしか思えない。洋子よ。メール読めよ。捨てんな。意味が分からない。そこで読んどけば誤解も解けて晴れてゴールイン出来たよ。

 

三谷の行動に衝撃を受け、それまで蒔野のことを超理解していた洋子さんはヤケクソで届いた沢山のメールを全てゴミ箱に打ち込む…。悪夢としか思えない。流石に描写が丁寧だっただけに、この展開は強引に過ぎ、違和感全開でキャラ崩壊というべきだろう。

 

文筆家は作品にリアリティを与えなければならない。なぜすれ違いが起きたか丁寧に追っていけばまだ読者の心は物語の音楽的な進展と共に並走出来ただろう。

 

物語の中盤に緩やかにしかし確実に進行していた物語が、突然上空から空襲されて全てを台無しにした感がすごい。起承転結は物語を作る際によく言われる言葉だが、転過ぎる。色々な偶然が重なって微妙なすれ違いを繰り返し、機会を掴むことが出来ない、そのうちに疎遠になってしまうのなら、そこをこそ丁寧に、ジグソーパズルのように全ては錯綜し最後には全てが噛み合い美しい絵を完成させる…そのようであらねばならなかった。この物語においては。

 

自分たちを理性的な人間と考えて憚らないこの二人の登場人物…メインキャストは肝心なところでトンチンカンを起こし、最早自ら誤解しに飛び込んでいってる疑惑すらある。今までの理知的で合理的で正確な思考はどうした?その理性はどこへ行ったんだ?

衝撃的すぎて、マチネのおわりに、のネタバレを読んでしまった感想

わたくし「三谷は船降りろ」

 

なんだ。繊細でハイソな音楽家と教養のある大人の女のラブストーリーちゃうんかい!

三谷とかいう女いらんでしょ…。人間のクズでしょ。何ちゃっかり結婚してんの…?

私が求めてたのは蒔野と洋子が色々おしゃれな生活をしながらおしゃれな恋をしておしゃれな対話をして、上流階級の上流な恋を描いて最終的には音楽芸術的にゴールインすることじゃなかったの?上級国民の生活を我々に擬似体験させてくれるんじゃなかったの?そういうハイレベルな感性を持った芸術的人間たちの繊細さやナイーブさ思想的深みみたいなとこを描く小説なのかと思ったら、三谷お前何してるん…。お前中身八神月とかだろ?メール書いてみたけど送っちゃおっかな~あ指すべっちゃった~からの携帯水たまりの中に落としちゃったテヘ!電源確認よし!この携帯完全にイカれてるぜ!(計画通り!)すびばぜん!まぎのざん!げいだい!おとしぢゃって!!

 

もうね人の携帯の中身見てその彼女さんに人物偽装して別れのメール入れるとか、人間の所業じゃないし犯罪行為じゃないんですかね…。私が洋子なら死ぬわ。バグダッド行ってこれでしょ。もうPTSDとリチャード振ってまで来たのにってので死ぬわ。もうそれで洋子がショックで死んで、蒔野も自分の発言の通り後を追って死ぬ、でいいんじゃないですかね。

 

三谷?知らんって。洋子が死んだ世界の誰に価値があるんだ。って感じで死んで欲しい。このようなアホ女には怒る価値さえ無い。取り残される三谷。仕事も生き甲斐も失う。薄っぺらい人生ご苦労さまでした、って感じで。

 

私の中ではそれでいいと思う。三谷に共感する女性は人間じゃないです。NTR人です。「ある男」が実に真っ直ぐなシナリオで良かっただけに「マチネの終わりに」は詩的な芸術をどす黒いペンキ間違って(恣意的に)かけちゃった(てへっ)って感じ。

 

 

プロフィール等変更いたしました。

まずハンドルネームを風鈴(ふうりん)→霞鈴(かすみ・すず)にしました。遠くで鳴るか鳴ってないかも分からないが鈴の音がするような気がする。くらいの意味で、ネットの海の未発見の深海魚みたいな存在である私にはふさわしいのかもしれない。ネットで調べたら既に使われてたんですが面倒であれば「かりん」とかでもいいです。かりんとう好きなので。

 

同じかりんというLEDを使った美術作品もなんかいい感じですね。あんな静的な自己イメージなのかも。神宮の杜(森)みたいな。

 

といいつつ、無一郎君がカッコいいので霞の呼吸を教わりたいからなのかもしれない。

その他はまぁ、多少ぼかして書いてある。読む意味は特に無いので時間を無駄にしなくても。

 

氏名を本気で取られる方はちょっと「あれれ~?おかしいな~?」と思った方がいいですよ。

 

 

電気代が上がるということ

電気代が6月に上がるらしい。エアコン付けないと死ぬのに?冬場はどうしろと?

電気代があがるってことはデジタル時代にデジタル機器を使いまくる今の現代生活では、電力使うなってのは、そういう機器使うなってことなので…。

 

逆行してるなぁ、と思わざるをえない。これは日本の貧富の格差を更に広げるだろう。ワープア民は生きてるだけで精一杯。中流以上だけが生活水準を保って快適に生きられる社会。既にそうなりつつある。贅沢品の価格はあがる。玩具なんかの価格があがると、それで遊べない子供が増える。PCを持っていない子供はスマホを活用するしか無いが、スマホとPCではインプット・アウトプットの効率や集約性なんかがかなり違う。

 

スマホもやはり最新商品は天文学的な値段でワープアな平民には買えない。そうしたものが「ブランド化」している。「ねんどろいど」なんかはもはやブランド品。

 

ブランド品を買える人たちは中流から上流。下民はちゃちな玩具で我慢することを強いられる。それが格差社会。私もPS5も買えないし、スイッチも買えないからなぁ…。

 

 

本心を読んだ感想

平野啓一郎「本心」を読んだ。

 

自分にとっては結構、ストライクな主題を扱っていた。母が自由死をしたいといい出し、主人公はそれを止める。そのうちに事故で亡くなってしまう…。

 

やはり内面を描写するには小説という媒体が優れているな、と思った。20年後の日本で貧しい中、自由死という選択が出来る世界。

 

VRが発達したその世界に行ってみたいとも思った。セカンドライフなんて見窄らしいものではなく…。

 

私などは独り身でこの先付き合う女性などいないだろうから、全くの孤独であり、主人公には共感を覚える。彼は難しい状況から成長していく。そのさまが人生という濁流の中を流れて生きるような、そして、だからこそ人はその中で成長していこうともがき苦しむような…そして清濁併せ呑むようにして瀬戸際を生きているような感じがした。

 

イフィーではないが私もまた生殖能力を活かす機会など訪れず、不能である。コンプレックスをずっと抱えている。そしてそれは増え続けていく。大学の頃、外部から招かれた講師が「人間は醜いもの」と言っていたが、それだけは真実のように思える。

 

ある人間は初めから欠落を抱えている。そして、生きねばならない。言葉にならない気持ちというものがある。そして、それは解答を得られぬまま抱え込むしか無い。自身の生理に翻弄されて人は生きざるを得ない。

 

三好という女性に関しても同様であり、性的行為の醜悪さが、その身体に刻まれた記憶が彼女という人間を呪縛している。そしてその呪いから少しでも身を遠ざけようと縁起というような体験を求める。

 

私もまた涙活等をして感情の精算をしたくなることがある。その生理的な働きにより、人はある種のストレスを一時的に解消する。そういう風に川の流れのように留まることはなく人は変わり続ける。

 

私もまた家族のその他者性と向き合う必要がある人間の一人だ。五等分の花嫁の映画を見たが、まさに四葉が感じていたことは、相手の他者性、であると思った。五つ子であり、そのことの結束が自分たちを支えている、ということをシェアし共感せねばならないという思い込みと、そこから逃げ出したい私。私は私であり五つ子というセットでは無いのだという思い。それ故に、主題は、彼女たちの同質性ではなく彼女たちの他者性なのである。

 

結局のところ、他者である個性ある5人がそれでも同じ境遇により結束しあい結びついて生きていく。まぁ、主人公は相変わらずのキリトさんだったが…。最近は伊之助の方が好きである。猪突猛進して頂きたい。

 

まぁ、要するに、どんな人も異なる経験を経て育ってきた積み重なる過去を背負った個性なのであり、私たちはそこに土足で入り込めると思いがちだが、三好とのルームメイトという関係性、イフィーとのお世話係という関係性、母と誰とも知れぬ得体の知れない父から産まれた自分という拭いようのない異質さ…そうしたものを総合的に抱えて、人は心理的に…もう十分だ、と思うことは人生においてしばしば起こりうる事なのだと私は解釈した。