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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

思考力・体力・気力とタスクと競争

思想

世の中には解決の手段が色々とあるのだろうけれど、僕は今のところ知らない。

例えば生活保護を受けるような人とか、底辺と言われるようなレベルで細々と暮らしている人たち。特に鬱病であるとか、気力・体力・思考力に難がある人たち、働けない人たち、収入が乏しい人たち。そういう人たちは競争社会の中で貶められる。

最低限の生活は保障されているだろうというのだけれど、その保証を受け続けるための条件というものがあって、色々と手続きが必要なのだ。それらにしても日々、更新がどうの、と仕事を定期的に割り振られる。

役所に行く体力も気力も無い人たちはそういう時、どうすれば良いのだろう。

3歩歩けば忘れてしまうような人たちは、そういう時、どうすれば良いのだろう。

どういう手続きが必要なのか説明されても分からないような人はそもそもどのようにアクセスしたらいいのだろう。

例えば、虐待する親の元から逃げる術を持たない子供を誰がどのように助ければ良いのか、という問題に似ている。

それも含めて競争原理であって弱者は切り捨てるのだというのは強者の理論である。うつ病に犯された人や精神を病んだ人、肉体的に障害を負って動けぬ人や老いて全てを失った老人等等、多分同様に支援を得るためにさまざまな仕事を押し付けられる訳である。そして、手続きをする能力は手前には備わっていない。ついでに家族もいないかもしれない。ここでいう家族というのは血縁者ばかりでなく互助的な繋がりのことである。例えば孤児であるとか、誰とのつながりも無い人というのはいるのである。僕からすればそういう人たちはイレギュラーとして扱われているような気がするのだが。発達障害者は僕の主観では「会話」能力が無い。そういう人は付き合えないから孤立しやすいのである。

競争に勝ち抜いてきた人だけが穏やかな老後を手に入れられる…のだろうか。映画「弟」のように腑抜けて生きられないようになってしまった人に寄り添って支援してくれる人たちもいるのかもしれないのだが。

より平均的に身近な話で言えば、機械オンチなんてのが挙げられるだろう。便利な世の中になるのは結構なことだが、例えば録画が出来ないとか、人によっては簡単なことでも理解力や理解しようという気力自体がそもそも無くて、出来ないままの人というのがそれなりにいるように思える。要は理解しようという気が無いのである。気力なり動機が乏しい訳だ。

技術の進歩なんかは著しく、付いていくのは容易では無い。それは歳を取れば尚更である。適応力が無いからイケないのだ、などと非難すべきだと僕は一概には思わない。

僕の身近では有線LANによるネット接続だとか、携帯電話がガラパゴス携帯呼ばわりされる現状などが目に付くところ。

後者は明らかにスマホに乗り換えさせたいという業界の悪意を感じる。その方が月々の利用料をふんだくれるからだろう、というのが短絡的な僕の見解だが…。

高齢者なんかは特にそういう流行に付いて行くのは至難では無いかと思われる。僕でさえいまだにガラケーを使っているし、無線LANが壊れて有線にバージョンダウンしてしまった。政府が一時期待していた「元気な老人」なんてのは一部で、認知症やら何やらで施設に入れられる老人が「元気な老人」なのかどうか僕には分からない。

政府は負担を嫌って、弱者に自己責任を押し付ける傾向があるように思えるが…。例えば限界集落のように自己責任ではどうにも出来ないような部分もあるだろう、と。

まぁ、そういう部分に手を付けるのも、穴埋めであり多様性なり社会保障を勧めていくことになるのだろうが。能力のある人たちが僕らのような弱者に心を割くことに憤りを感じる感情は良く分かると思う。アメリカの資産家が税制逃れをするようなものであろう。自分の手柄を横取りされているように感じる、というか、なぜそんな愚か者を支援しなけりゃならないんだ、と思うのも無理からぬことである。だから、弱者が叩かれ生贄の羊にされるという方向性も分からなくはないのである。

僕は割と医師や弁護士というものを尊敬している。少なくとも他人の責任を負えるほど僕が強く無いからこそ、他人の責任を負える彼らが凄い人種のように思える。まぁ、医師や弁護士にも色々いるのだろうけれど。

だから、そういう彼らが高収入になることに別に否やは無い。苦労した分の見返りが無いと張り合いが無いだろうから。だからと言って、僕ら弱者を貶め軽んじることさえも肯定するのは別だろう、と。そういう風潮が別にあるわけで。

そういう部分にはやはり憤りを感じる訳である。統計的にも発達障害者が競争にしゃしゃり出ることは賭け事に近い。僕に言わせれば「会話」が出来ないのだから仕方ないと思う訳である。だから割と底辺と言われる部分に直行気味である。他にも問題は色々あると思うけどね。そういう人たちが競争という一括りのレースの舞台に上げられて能力が無いから貶められるというのは納得し難いものがある。

競争原理が現に働いているからと言って、それが正しいかどうかというのは別のことだろう、と。僕の感想としては、それで得をするのは良いが、貶められて当然という感情的な捌け口に利用するのは人道に反するだろう、と。役立たずに人権なんて無いという人さえいるのだろうけどね。

犬の話になるけれど、彼らはあまりストレスを感じるのは良く無いらしい。都市で飼うのはナンセンスなようだ。多くの人との接触は犬のストレスになり、問題行動を引き起こす引き金になる。それは人間にも当て嵌まることのように思われる。人はあまり多くのストレスにさらされるべきではないし、自発性を発揮させるには他人が無理強いするべきでは無い。

他人が良かれと思って押し付けることが行けないのは、その人の常識を当然と思って他人に適応するからである。犬と人間は別の感性に従って生きているように、人間同士だって異なる感性の中で生きているのだから、自分の常識の押し付けは彼の自発性を奪うものだと心得るべきだろう。

人間は自分のようになって欲しいと思い、人間らしく振る舞うことを他人に強要するケースがあるが、それは他人を侵害しているのだ、という部分があるのかもしれない。特に宗教関係を引き合いに出せば、この主張が何を言いたいのか、というのは顕著に察せられると思う。

宗教というのは自分たちには関係無いと思っている人がどのくらいいるのか分からないけれど、これはミクロな部分では個々人の個性にまで言及されるものである。イスラム教が問題になっている昨今だが、多くのイスラム教徒は平穏に暮らしたい人達なのだ、と聞き及んでいる。問題を引き起こしているのはISISというイスラム過激派であり、他の信者とはまた異なる信仰を持っていると言えるのだと思われる。

例えばそういう話で、ミクロな部分では家族間でさえそうなのである。僕は大学のゼミで「家族は本音を話せますよね」と発言して、ゼミの構成員はこれに首肯したのだが、良く考えると僕は家族と分かり合えたことなんて無かった(苦笑)前言を撤回しました。それは理想の話であって現実ではない。現実には血縁関係は分かり合えることと何ら関係は無いと思う。単に長期的に近くにいる可能性が高いから「どういう思想を持つ人なのか知っている」という位である。

この部分は僕は大切な思想だと思っている。儒教は両親を大切にしなさいと説くし、日本は家族関係を重視するきらいにあるが、僕はあまり重要視すべきで無いと感じている。「家族だから兄弟だから仲良くしなければならない」という強迫観念こそ害悪になるとさえ感じている。お姉ちゃんだからしっかりしなければいけない、というような信仰の押し付けが問題行動に転じるのは良く知られた話である。家族だってバラバラなのが現実である。友人と同じようにそこには相性と関係性の距離感が重要となるのが本当だと僕は考えている。そして、分かり合えない人とは永遠に分かり合えないこともあり得る。

親しき中にも礼儀ありとはよく言ったもので、至言だと思う。これは上記のようなことを言っている訳だ。僕らは個人であり家族では無い。団塊の世代じゃないけどさ…。言い換えれば、家族というのは集団に過ぎない。国家・県市町村・学校・サークル・友人関係等々のコミュニティに他ならない。それらと別枠の特別なんかでは無いというのが僕の感想である。ところが家族は特別であるという信仰は根強い。血や遺伝子なんかを根拠とする訳である。人種関連と似ている構図だ。そこはかとなく逃れ難い感じがする。バッサリ言ってしまうなら何というか、それは愛着の問題であるし、一種のナショナリズムだろう。

特に家族と良好な関係が築けているのなら特別視しても構わないだろうが、そうでなければ特別なものでは無いと割り切ってしまった方が楽だと思っている。僕らはどこかに帰属しないと不安だから。家族と言うものが最後のセーフティネットになりがちだから、という理由でそこに執着してしまいがちなのだろうと思う。