LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

自分の殻

自分の殻に閉じこもる、とか自分の殻を破る、というが…そういう考えは危険だと思う。

 

慣用表現に過ぎず本質を見失う。ただ気合入れて人と関われば何とかなるとか、そんな感じである。

 

確かに小手先の技術は上手くなるかもしれないが、他人に対するキツさは慣れに依るしか無く、気力が減退すれば厭う類のものだろう。

 

コミュニケーションが苦手というより辛いのである。それは、どうも技術の問題では無いように思える。私自身のこだわりが人との関りを忌避している。

 

他人を好くことは生まれながらの本能では無い。コミュニケーションもまた。母性と同様に本能に帰属する、天賦のものであるのだと信じたいだけである。

 

必要性から逆算しているだけだ。社会に託けただけ。

 

大抵の処世術の哲学の倫理は前提として生存権が保障された社会の話ではない。働かねば生きていけず、大抵は働く場所は社会であるから社会性の無い者は振り落とされる。そういうシステムに「合った人間」が正解だと見做され、そのようになることが「処世術」であり「正しい生き方」の模範になっていく。

 

一方で、その社会性の処世術に合わない人たちの生き方は否定される。その前提がある以上、話にならず歪な論理が現実上の正論として罷り通る。「社会に合う人間こそ天与の正しさを持つのだ」と。

 

まぁ、そういう社会を風刺した結果が、勇者と魔王の戦うRPGなんだろう。敵を倒すために強くならねばならない。でなければ死ぬ。相手は分かってくれる存在では無いから、という感じなのでは。

 

私はそのように強く生きられるタイプじゃなかったからね。それは強い生き方であって、正しいとか間違っている生き方という訳では無いと思うのだ。

 

死ねば間違った生き方?生きられるのが正しい生き方?そういう前提の話なのだろう。認めるが迎合できなかったため、私はそこを解体する。出来ないのだから仕方ないのである(苦笑)

 

誤った人生も間違いでは無い。

 

 正しさというのは必ず何らかの前提条件に基づく正しさである。証明問題。論理の問題である。命題の証明である。

 

命題が間違っている時、結論も間違っている。

 

 私は間違った人間である。という命題は不可知では無いだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発達界隈雑感

非情にドロドロしてるなー、という印象。殆どの優しさは気味が悪いものだ。だから、優しくされるのは好きじゃない。

 

その裏に自慰感情を感じるから。あなたは自分の傷だけ舐めてなさい。鬱陶しい。そうした言葉の裏を感じるのが気に障る。そして、私は受け流せるほど耐性が無い。

 

昔も思ったが、自立することが難しいのである。金の話では無く、精神的な自立の話。精神的に生きるために他人の支えを必要としてしまっている。

 

友達が欲しい、恋人が欲しい、結婚したい、云々。そこに必死さを感じる。人間関係のコツは人間関係に執着しないことだ、と言われるが、彼らは執着してしまう人達であり、何が悪いかと言って、その必死さの根幹を内省しないことだろう。

 

だから、仮に友や恋人が出来ても問題は解決しない。解決されずに放置されるだけだ。介護されてるだけ。

 

まぁ、良い。

 

このところ、気力・体力が無いのがあれだが、精神的には穏やかな日々を送っている。他人の心への干渉がやはりイケないみたいだ。

 

こうしてただここで生きていていいのでさえあれば、友達も、伴侶も、家族も、ペットも必要では無い。

 

思うに、生活の不安や命の保証が無いから、そうしたものにヤキモキせねばならないだけだ。不安だから頼れる相手が必要なのだ。

 

日々働く人は夢や目的を叶える時間が無いと言うが、私から見れば、果たすべき夢や目的など人生にありはしないのになぜそんなことを言うのか、という風である。

 

意味や意義が欲しい、という。でも、そんなものは無い。じゃあ、それは本質では無いのかもしれない。そういう言葉で別の主張をしているのでは無いか。要するに楽になりたい、とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個性を愛すること

発達障害は障害だから治しましょう。分かっていない人が多い。

同性愛は障害だから治しましょう。これと同じことを言っている。

 

同性愛は社会の都合で障害に分類されていないだけ、発達障害は社会の都合で障害に分類されただけ。それを抱えている私にとってこれが私の人格なのだ。

 

それを切った張ったし、治る治らないの、という。外野が。あるいは同性愛者が異性愛者になりたいという風に、発達障害者も健常者になりたいと言う者もいるが、それは自己否定。もし全体に関して言うならば同じ障害を抱える他者否定だ。

 

能力の無さも同性愛と同じ問題で社会の許容性の無さの問題であるのに、本人の努力の問題に転換されてしまっている。なまじ健常者の視点で測れる能力であるから、そうなってしまう。

 

努力と社会的なサポートの半々という人がいたが理解が足りていない。そうじゃない。自分の求める分だけの努力を自分が決めて自分で努力するのである。他人が目標を定めるものではない。

 

同性愛者に異性を愛するように命令する、とか、そういう問題になってくる。異なると思うだろう、異なりはしない。能力の大小にケチを付けるのも同様に、その人の個性を否定し迫害する。

 

健常者も努力しているから、というのは、男も努力しているから、女も努力しろ、というのと同じだ。所詮、男は男の視点で命令しているだけに過ぎない。その人の立場に立ててはいない。努力したいのならばすれば良い、しかし、努力しないのだから死ね、と同時に言っていることを弁えて欲しい。

 

その努力は健常者と同じ努力ではない。男としての違い女としての違いという風に、質の違う問題を含んでいる。支援者から見た時、その質感の違いは男女平等を謳う時のようにスルーされる。

 

しかし、それはスルーして良い問題では無い。そこにその人らしさがあるからである。そこをスルーした途端、それはその人の個性の否定に繋がる。広義の個性というのはマイナスを含む。

 

「生き難いから努力して変えましょうね」というのは「生き難いから性別を変えましょうね」という風に容易に転じる。この危険性が上手く伝わっていないように見える。

 

障害者の個性とは、社会的障害によって表現できていない禁止されている区域にこそある個性である。まだ社会の中で形にされていないものを見なければならない。社会の中に押し込めて詰め込んでしまおうというスタイルには私は反抗心を掻き立てられる。

 

基本的にそれは「同性愛を否定して性転換させる」所業と同質である。本人にとっての困難が、社会の苦言に摩り替えられてしまいやすい。健常者も我慢しているのだから、等と付け加えれば完成するのだろう。

 

健常者社会も又問題を抱えているがだからと言って、復讐的に障害者も同じ枠に嵌めてやろうという精神には関心しない。健常者の個性の枠組みは健常者自身が自ら広げなければならない枠組みだからである。その個性を発揮できるようにだ。

 

私には私の芸術的なあるいは文化的な可能性が見える。それは広義の個性で言うように経済的社会的な価値は測れないものだ。しかし、健常者社会に擦り寄ればそれは見えなくさせられるだろう。それは私を殺すことだからだ。私はそれを良しとしない。私はそれが見てみたいのだから。

 

我慢というのは個性を殺す。生きている実感を奪うだろう。私には未だに発達障害者に対してロボトミーをやっている風にしか見えない。特に親も健常者であれば発達障害の持つ可能性を困難毎握り潰しても構わないと思っているように思える。

 

普通の幸せは無いかもしれないが、別種の個性を発揮した幸せはあるだろう。見えないだけだ。それが分からないから、友達がいない。結婚ができない。恋愛ができない。子育てができない。だけで塞ぎこむ。それはあくまでも健常者の一般論的な幸せに過ぎない。

 

各々、大切にするものがあり、私には私だけの唯一性があるはずだ。それを見出す努力が必要だが、命は本来、型枠に嵌るものではない。型枠に嵌めているのは文化と人間である。

 

文明は今日、発達障害者を生かしているが一方で知識と言う後付けの常識による先入観が私の生き方を縛り不幸に釘付けにしている。その自分自身に対する自分や社会からの呪縛を解いた場所に、不可視の、フロンティア的な生き方が転がっているはずだ。

 

21世紀に入り16年。様々なものが新たに可視化されてきた。つまりは可視化されていない領域がそれだけあったということを意味しているのだ。では、なぜ現状の常識に確固として囚われる必要があるのか。

 

命綱を繋ぐために、過去と言う大岩に自分を拘束しているのだ。

 

 私は無能かもしれないが、これは死に至る病では無い。なのになぜ治す必要がある。働けないだけで困ってはいない。どうせ仕事なんて無くなっているのだろう。

 

同性愛者は自分を誇れば良い。自分の形を認めれば良い。

 

発達障害者も自分を誇れば良い。自分の形を認めれば良い。暴力性だとか他者に危害を与えるわけでは無い本当に支障が無い部分に関して、社会の言いなりに全て変える必要は無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泥のような日常

生きている実感に乏しい。半覚醒である。何か感覚刺激を求めている。麻薬・酒・女・スポーツ…。ドーパミンを放出させたいのかもしれない。

 

走っていないと死んでしまう病。家にいると活動性が下がり、そのまま動けなくなりそう。だから、外へ行かねばならない。非日常へ行かねばならない。かと言え、現実社会というのも苦しい。

 

だから、戦場とか異世界とか架空の場へ行こうとする。そこでなら自分は自由に活躍できるはずだから。そんなことは無いのだが。

 

自己肯定感の無さの露呈。この世界に居場所が見出せない。こんな世界は間違っている。

 

どこかに自分を受け入れてくれる場所があるはず、天国を夢想しているのか。頑張れば報われる、という根性論に縋りつき、自分の無能を認めることが出来ない。だから異世界で現代知識無双ができるはず、と思い込みたい。戦場でも同様なのだろう。

 

ままならない日常から逃げ出すための言い訳、としての趣味趣向。隣の庭は青い。自分の庭は無残。だから、放置して、どこか遠くへ逃避行。手入れの仕方も知らないから。

 

自分の庭と向き合えていない。彼の自己というのはADHDの部屋のように散らかっていて、掃除するにもどこからやって良いのか分からないのである。だから、整理された社会や、映画館へ出て行こうとする。

 

部屋に帰れば荒れた部屋。掃除の取っ掛かりも無く、やはり無視を決め込む。だから、自分の中が何時まで経っても、整理されない。

 

日常はその繰り返し、と見る。

 

 

自己管理能力の欠如。

部屋を片付けるように、自己の内面も片付けなければ居心地は悪くなる。それらをクリーンにしていれば、そこへ居付ける。けれど、そうしないから、延々綺麗な外へ出て行かねばならなくなる。

 

 強迫観念と衝動性とは密接な関係にあると思う。特に「働かねばならない」という強迫観念によって、何らかの衝動性を誘発させられているのでは??

 

「溺れる者は藁をもつかむ」という風に生きている者が、それ自体を心地良い状態だと倒錯しているように見受けられることがある。

 

却って、何もない日常が退屈だと感じるのでは。一人で居られない。じっとして居られない。不安。

 

かと言って、やるべきことを放棄してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の考えを疑うということは自分を信じるということである

自分を疑うということは自分を信じなければできないことだ。

なぜか。

自己矛盾に陥るから。クレタ人は嘘つきだ、という命題を証明することはできない。

 

だから、クレタ人は第一に誠実でなければならない。嘘つき、というのは自分に誠実で無ければならない。ドSが人の気持ちをよく理解していなければならないように、嘘つきは嘘を見抜けなければならない。

 

思考というのは自分自身では無くて客体である。思考は自分の外側にある爪や髪のようなものだ。だから、それを間違っているというのは、爪が伸びすぎた、というような主観的感想に他ならない。

 

だから、主観的な観測の結果、として「思考結果が間違っている」と観測することは自己矛盾しないし、おかしくは無いのである。

孤立したい

しばらくツイッターをやっていたんだけれど、孤立したいなと思えてきた。内面世界に引きこもりたいな、と。

 

そういうのが私だなぁと思う。それは私らしい。孤独で孤立した世界を生きて来た私にとって、その静寂が生活に不可欠なのだ。

 

だから、一人ぼっちにしない、ということを毎日のように強制されるとすれば、それは私にとって望む処遇では無い。

 

一人になりたいときにはずっと一人になれること、これが不可欠だ。私が私としての在り方を保つためには。

 

私は早朝の静けさが好きだ。まだ人の起き出さない、他人の喧騒に掻き消されていない自然の静寂が見つけられる。

 

ツイッターというのは言わば、商店街やデパートみたいな場所だと思う。喧騒の最中だ。ウィンドウショッピングをするには良いが、それは旅行で非日常である。帰ってくると精神的疲労を感じる。

 

私は居場所を見つけたいというが、正直引きこもっていればここが居場所になっている。問題は無い。外の居場所というのは所謂、保健室登校みたいなもので一時避難所に過ぎない気がしている。

 

人とのコミュニティの中に私の居場所は見つけられないのだと思うし、所謂、社会への登校を強要されない限りはその必要も無い。

 

社会にでなければならない、というバイアスがベクトルが摩擦を引き起こしている。精神の軋轢を生み出す。10代の頃から、あるいはそれ以前から、少なからずそのようであった。

 

そういう人は、もうそれでいいのだと思う。

 

 私は今まで社会の中に飛び込んで居場所を何とか探そうとしてみたけれど、それでは行き詰ってしまった。だから、それを止めることで、自己承認、自己肯定に結びつく道があるんじゃないか、と探してみたいわけである。

 

私の腑にスッと落ちる生き方をして、そして死にたい。

 

 

 

 

 

発達障害とは

能力に凹凸があるから発達障害では無くて、

発達障害があるから結果的に能力に凹凸ができてしまうのである。

 

発達障害があるから生き難いのでは無くて、

社会が要請する能力に対して能力の低い人間は生き難いから、

発達障害者もそれに倣い生き難くなるのである。