LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

文字とは芸術である

以前から漫画家は字が上手だな、と思っており、それは何故かと言えば、彼らはイラストをやるからであろう。

 

美術とは要は望む形にモノの形を整えること、であり、美術家はそうした行為を修練するために上手い。故に文字も又綺麗になる。

 

逆に言うと、そうした「形」を意識しなければ、文字が下手だということになる。学者にはそのきらい(傾向)がある。彼らは思考を写す媒体としてノートを取るので、形には拘らない。己が読めれば良いのである。

 

文字が上手い人というのは「形」を重視しているので、逆に言えば、文章の内容に割く思考の割合は少ないのかもしれない。つまり、見やすく上手いノートを書く人というのは、授業内容に対しては没入してはいない可能性がある。

 

ノートを取る行為、というか文章を書く行為は面白い。それはPCでブログを書くことでは無く、筆記で紙に書く行為である。

 

紙に字を書く行為は面白いのである。それをITで代用しようという考えがあるが、タイピングは私には筆記よりも味気ないように感じられる。

 

無論、タイピング自体の面白さ、というものもあるし、事思案するために書くのならばタイピングの方が優れている、と思う。それは思考スピードと筆記の時間差が短いほど思考の流れを疎外しないためだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑感 物事の見方

何か一つの概念に正解を見出そうというよりは、何かの物事の距離を測るように心掛けると良いのかもしれない。

 

「中庸」というが。これは「二元論の真ん中」ということでは無く、問題と距離を置く、距離を常に測るような立ち方という意味で使いたい。

 

現実は常に選択と決断を求められて、私のような人間は動けないのだが。それでも、やはり常に測って行きたいように思う。だから、他人にもそうせよ、とは言えない問題である。そうすると他人も私のように動けなくなり困るかもしれないのだから。

 

これは厄介な私の特性かもしれない。だからそんな問題の無い他人は真似ることは無い。

 

信じるというのは一時的なもので、とりあえずそう決めて動くという風に使うことが多い。あてを付けて、確認する。

 

あてが外れれば、それは調整して良い。生に於いてはそのように探っていく作業が多い。日向ぼっこをする猫が太陽の動くのに合わせて寝る場所を移るように、何事かに於いては一か所に留まることは適当では無い。

 

そういう類の物事を我々は見過ごしていることが多く、結果として行動が的外れになってしまう。最早、太陽が照っていない場所で日向ぼっこを続けているということがとても多いようだ。

 

そういう行動に関して良く気づき、適当なものへ評価し直していくようにしたい。

 

現実は答えさえあっていればよい、ということがあるが、私は式の意味の把握や過程の考え方や、その合理性を注視したい。

 

術理の把握である。型は把握のためになぞりはするが、最終的にはカラクリを理解したい。正直、そういうことへの適性はイマイチであるように思うのだが。

 

 

 

 

 

多様性と個人差

個性には能力差があり、所謂、低能、馬鹿、凡俗、阿呆、変態…等々の比較されて劣っているとされる個性もある。

 

それぞれに何か光る部分もあると言うのは慰めか世辞だろう。もしもあったらいいね、である。

 

多様性の話になると、そうした一芸を持たないと思う自信の欠落した人間が無制限の自由を振りかざし自分の弱さを正当化した挙句、価値があるも無いも無い、等しく全て素晴らしいと言え!ということにする。

 

みんな違ってみんないい

 

だが、いい→良いにされてしまうわけである。この「いい」は違うけれど、まあ止しとしよう、という「いい」であると受け止めた方がいいのではないか。「もういい」という時の「いい」である。

 

そんなつまらないことは許せ、ということだ。容赦しろ、と。人種においては全て保護し人道的に扱うという風に前提を置き、人によって最低な人間もいるが何とか保護しなさい、という風に解する。

 

まぁ、私はだから人権を守りつつ外へは出さないために刑務所があるという風に思うし、死刑には反対する。

 

犯罪者の全てがそうだとは言わないが、人によっては劣等なのは仕方ないことだと考えている。多様性というのは優劣を含む。個性には優劣がある。だから素晴らしく無い多様性というものもあるだろう。その中で他人の人権を脅かすものは調整されるだろう。どの人にも人権があるからである。

 

最低限の人権の保障は、文化的で云々というものであるとして、それ以上の文化的な栄華的なアレが富において行使し得る自由だろう。

 

人間は自分自身を自然公園において保護するようなことをしなければならないように思う。再帰的であるというか、両義的であるというか、そういう存在だろう。でなければ道徳もへったくれも無い。

 

羊飼いであると同時に羊でもある。羊飼いであれるかどうかは人に依るだろうが(=_=)子供の頃は羊で大人になればだいたいは羊飼いをやるが老人になれば羊に戻る。人生を通して羊である者もいるだろう。羊飼いでありながらある面では羊である者もいるだろう。

 

とまぁそんな具合である。人間は動物であり、かといって完成された動物では無いのだからそんなもんだと思う。その動物を分類すれば色々な種類に分けられるんだろう。なにせ73億人もいるそうだから。

 

てか多すぎだろ(=_=)さすがに計画的に減らせと思うね…。

 

みんな違うが容赦しろ、という話である(=_=)

わけの分からないごった煮みたいなもんなんだから…。

 

犬は犬種で性格が違うが、人間もそのようなところがあると思う。だから中には相性の悪いもの、劣ったもの等あるだろう。理想としてはそういうものに整理を付けて、容赦できるようにシステムが整理されていくべきなのだろう。

 

現時点においては、私の語るような理想に遠いことは目に見えて分かる(=_=)私は、チワワもヨーキーも器質的にあんまり好きじゃない。けど、どこかでそういう犬でも生きていければ良い。というか生きていけないなら増やすなよ(>_<)

 

その辺もまぁ結構闇が深いっぽいが…(=_=)

 

最終的に性格が穏やかなものに組み替えられるとか、淘汰されるのは仕方ないが、現状において生あるものは…という話。まだ生まれる人間の優劣についてまで運を天に任せてサイコロを振れとは言わない(=_=)その辺はどうすべきなのか考えられもしないし。淘汰すると文明の進歩を抑制して滅ぶだろうか?その辺が良く分からない。

 

ただ生きている人間については可能な限り人権が尊重されるようであって欲しい。それを個人でやれとは思わないし、仕組みとしてそう流れるようにして欲しいという話である。

 

個人の話としては、人間に能力差が広くあることを認識した方が良いと思う。性格にせよ知能にせよ運動神経にせよ何にせよ。人間について詳しくなるというのは魚類について詳しくなるくらいに思った方が良いと思う。

 

そのくらい人種に精通するには広い領域を網羅する必要がある、という風に考えた方があてが外れないように思う。自分個人の経験を感性を誰にでも当て嵌めて何でも理解できるはずだ、と簡単に考えられがちだが人間の幅はそのように狭くは無い。

 

他の哺乳類であるとか異なる種族を学ぶ際のように人間を、他人について学ぶ必要がある。

 

自分という人間あるいは他人という人間は、人間の一個体である。だから同じじゃ無くて当たり前だろう…(=_=)差別してしまうのも当たり前だが個々人は人権において暴力から守られねばならない、と言って私は道徳上の「してはいけない」理由を付ける。

 

平等で対等だからではなく、人権において。動物には動物の権利があるように人間には人間の権利がある、ということである。人間は他人同士平等でも対等でも無いが人間として生まれてきた時点で人間として扱われるべきであり、そこには人権が発生する。

 

愛玩動物を扱う際に動物の権利(アニマルライツ)を守らねばならないように、人間を扱う際には人権を守らねばならない、と考えれば良いと思う。

 

そうであれば、何故人を殺してはならないのか、という問いには、他人の人権を侵害するからと答えられるだろう。そうすると同意においては安楽死も認められるのかもしれないが…(=_=)意志の確認というのは鬱病に見られるように難しい問題である。

 

自分の人権が脅かされるとき、じゃあ他人の人権を侵害していい、という訳では無く、両方の人権が守られるように手を打つことが適当だろう。正当防衛による暴力等は人権侵害の状況的な情状酌量の余地の問題だろう。

 

能力差はあるのが当然だし、劣るものがあるのも当然だし、見苦しいものがあるのも当然だし、しかし人権において自分も他人もみだりに脅かされるべきではない。

 

ただし、物事の優劣というものは存在する。

 

私の意識においては、

 優れたものは優れている。劣っているものは劣っている。見下されるものは見下される。差別されるものは差別される。称揚されるものは称揚される。否定されるものは否定される。

 

そうした評価を下すことは良いだろうけれど、私は他人の人権には配慮しなければならない。

 

こう書くのは、思うことすらいけないのだ、と言う人もいるからだ。見下してはいけない、差別してはいけない、否定してはいけない…という人がいるからである。

 

私は個人においては、そうしても良いと思う。但し、社会において、それが見下した人の、差別した人の、否定した人の人権を脅かした場合において問題にされるだろう(=_=)

 

意志表明が、言葉が下手な人は他人の人権ごとぶった切りそうで、あるいはぶった切って炎上し、何も言えなくさせられるが(=_=)

 

炎の魔法剣の使い手だね。

 

実際、その辺は伝え方はとても難しくなってきているという風に思える。この時点では私も何とも言えない。婉曲な言葉で、皮肉を用いて、背中から刺すような人もいるし(´・ω・`)バックスタブはクリティカルと補正ダメージ入るんですよ。

 

そういうのは自分の意見の伝え方じゃなくて人権シールドを貫通するか無視して攻撃を加える方法ですね(´・ω・`)

 

ばれなきゃ人権侵害しても構わない。という構え。みんなやってるパナマ理論(=_=)

 

そんなものは認められるわけないじゃないですか…(゜-゜) 

 

 

本好きの下剋上 569話 展開予想 感想

ゲオ子とランツェナーヴェがグルで、中央騎士団長もグルと。

ディートリンデは甘い香りを嗅がされていたので殺処分だけは免れるかもしれませんね。

 

ランツェナーヴェの姫の扱いが酷いようで、フェルディナンドはキレてましたね(=_=)無知蒙昧な人間嫌いだから。

 

ディートリンデ主観で見ると悪気が無いのが分かるから、多少、同情はしてしまいますね。無能が勘違いして権力を握るとどうなるか…という。無知な正義感を振りかざした結果。

 

とは言え、感想欄はディートリンデ憎し!ざまあ、死ねって感じで、うわぁ…と思いますが(´・ω・`)無能が無能を無能だとディスってるよ…。

 

なろうの感想欄については「だいたい民度が低いので」作者はそこに引っ張られるべきじゃ無いんですよね…(´-ω-`)

 

民度が高ければ話は変わってくるのですが…。

 

だいたい今回の話でカードは出揃ったんじゃないでしょうか。事件編の前の足場固めって感じですよね。

生活保護費について

保護費が増えて来て、預金が増えすぎてしまうと、一時停止されるとか、何やら面倒な手続きが起こるそうなので、

 

例えば、一定額以上になってしまった際に、銀行口座にある所持金をその時にある程度返金できるようにしてもらえると、良いのかなとか。

 

例えば6か月以上分貯まってしまった時に、2か月分くらいまで返金できるようにするとか。

 

現状「貯まらないように使い切らなければならない」みたいな圧力も感じる。

 

こういう給付されるお金というのは、部活の活動費みたいな感じで使い切らないと来年減らされるとか言って、無駄遣いさせられなければならないところがある。

 

それは本当に疲れてしまう。減らされたり、無くされたり、という風になると必要な時足りなくなるから、頑張って使わなくちゃ!とか、いう風になるわけじゃないですか。

 

生活保護を受けてる人は、正直、そういうことしたくないでしょう。考えたり動くことに支障あるだろうから。

 

だから、その辺、安心して受けられるようにして貰いたいな、と思うわけであり。なんか、あまりその辺よく考えられてないよね(´・ω・`)

多分、だから箪笥預金されちゃったりするのよ。

 

停止されたり、減らされたりしたら不安だから。だって止められたら、また受けなきゃならないときに窓際作戦とか書類複数出せとか言い出すでしょ。そんな根性いつまでもあるわけじゃないし。

 

それは制度自体が安心できるものじゃない、という話であり。

 

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まぁ、別のvector(変換したらこうなったけど格好良いから使ってみる)の話をすれば、生活保護者にお金を運用させることは自立の役に立つので、貯金してそれをどう使おうが問題ない、という風にある程度しておいて欲しい。

 

正気を疑うけど現物給付とか言い出す人いるじゃないですか。そうすると「お金を使う」という自由を剥奪するわけですよ。それだけ人権を制限される、ということになる。

 

人権もそうだけど、お金を使うという技術が身に付かず、かつ衰えてくわけであり、お客様として商品を購入するスキルも同様ですよ。

 

機会を奪えば能力が身に付かないのは当然で、お金を使えるなら使った方が自立のために良いわけです。

 

例えば車の所持は認められる場合と認められない場合があるのだと思うけれど、車を所持して運転するという自由を制限されている。

 

同様に、労働というのは「権利」なんで、働きたい、と行った時に、与えられるべきもの、なんだと思う。義務という面ばかり誇張されがちだけど。

 

その辺なんだか制度がスカスカな気がしますね。無能力のまま縛り付けて望んでも這い上がれない状態に釘付けにしてる気もする。

 

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毎日会社にいって働くほど気力も体力も無い。けど5年に1度くらいなんかやれる、みたいな人っていると思うんだけど、現状、そういう人の能力が社会に出る機会が無い。

 

コツコツ毎日地道に作業するだけが仕事で価値を生み出すことだと思っていて、年収を稼いで自立した生活をしていかなければ生きている価値が無いとかいう社会だと、こういう一発屋的に明らかに社会的価値を生み出す人を活用することはできない。

 

こういう人が漫画なり芸術なりパソコンみたいな技術なりツイッターみたいな画期的なソフトウェアなりを生み出すかもしれない、という機会が出て来るのをイデオロギー的に制限している。

 

だから、仮にBI(ベーシックインカム)みたいな、その人が日常的な生産性は薄い知的生活を送ることを可能にする状況を実現して、社会に出てくる価値というものもあるんじゃないかな。

 

まぁ、貴族が文化を生み出してきた、的なあれです(´・ω・`)だって、今だって一発漫画をヒットさせただけで何世紀か悠々自適に生活できるくらいの富を生み出せたりするわけじゃないですか。

 

それはそれだけの価値を一瞬にして生み出した、ということに他ならないわけで、一日8時間規則正しく働くことが価値を生み出しているわけじゃないでしょ(´・ω・`)

 

 一億総活躍とか、みんなが毎日一日8時間働いて、手仕事して汗をかいてというイメージじゃない?( 一一)いや、でもさ。一方じゃドローンで宅配しようとか、単純労働は機械で置き換えよう、っていう時代なんですよね。。

 

 

 

 

 

 

語るに落ちる

私は優しい人間です。と言えるだろうか。言えない。

それは観測した結果の誰かの感想に他ならず、じゃあ、私は優しいから〇〇してあげる、とか言うのだろうか。そういう風に、人は自分の性格を行為に繋げたがるが、私にはそれはオカシイと思える。

 

再帰的で、あるいはマッチポンプのようだ。他人に優しくしてしまうのは、自分が何らかの理由からそうしたかった、だけであり、結果として「優しい」という評価をされてしまう。

 

そういう問題なのだ。だから、性格の形容は本質を捉えていない。結論ありきの統計みたいなもので、結果に合わせて都合の良い数字や式を持ち込んだだけの形骸である。

 

自分を形容しようとする際の視点と、事に当たろうとする際の自己の視点は異なるものであり、ベクトルが異なるのだから、正しく写し取れているとは思わない。

他人と仲良くしなくてもいいんじゃないかな

発達障害界隈は「他人と仲良くできなければならない」みたいな思い込みが激しいのではないか、という印象を受けた。

 

だからというのではないが、他人と仲良くならなくても良く無い?という風に思うのである。無理して仲良くする必要なんて無い。

 

仲良くしない、ということは「否定」ではなく、ゼロ地点を指す。だから攻撃的になれ、とか否定しろ、非難しろ、ということでは無くて単なるゼロで良いということ。

 

別に無関心になれ、ということではなく、興味があれば関心を持てば良いし、単純に「仲良くならねば…!」と身構える必要は無いのではないか、程度の話である。

 

仲良くなれないなら、それは仲良くなれなかっただけのことであり…(´・ω・`)

 

カサンドラ症候群とか相手に陥らせないために私は健常者のフリをして好感度あがってるフリをしなきゃいけないわけ?そうしないと仲良くなれてる実感が得られないから、喜んでいるフリとか、反応してるフリをしなくてはならないわけ?

 

そういう感情労働を常日頃から強いられるとか無理だな、と思っている。仲良くなりたいなら健常者に歩み寄れというが、無理っす(/ω\)喩えて言うなら「自転車を向かい風に向かって漕ぎ続ける」ような苦しさが、健常者に対するコミュニケーションの中にはあると感じており、仲良くなる前に苦しくてダウンする方が早いんですよ。

 

したくないことに対してストレートな発達障害者としては、それ自体避けたいという忌避感情がコミュニケーションを重ねるほどに重くなっていくわけであり、最終的に「生理的に無理」という状況になり兼ねないな…と。

 

まぁ、だから彼らはよく携帯のアドレス帳を真っ新にして新天地に逃避行したりするんじゃないかと思うのだけれど(/ω\)地域に無難に住んで過ごしているだけで他人の好感度が上がってくのが辛いんですよ(´・ω・`)顔見知り増えるし。

 

他人の私とコミュニケーションを取りたいと思っている風な期待が辛い。まぁだから、期待されても、その期待に応えなきゃ良いんだと思う。私たちは他人と仲良くしようと思い過ぎて気を揉んでるけど、それ自体が悪い結果をもたらしているような気がする。

 

だから、「上手い反応をしなきゃ!」と思うのではなく、残念ながら某は期待されても応じられないのでござる…という前提で関わった方が良いかなーと思いつつ。

 

結局、誰かと仲良くなりたい、とか思うこと自体が精神的な負担や空気読めない行動に繋がりがちだと思うわけで。

 

それは「仲良くなってはイケない」ということではなくて、他人に対する構え方としては間違ってんじゃないかな、と思うわけである。

 

健常者はこの人と仲良くなりたいな、コミュニケーション取りたいなと信号送るわけだけれど、それは前提として相手に同じような人間であることを期待しているわけで。私は同じような人間では無いので、その信号に応じられないにも関わらず、頑張って応じようとする。ここが間違いだと思う。

 

例えて言うなら、外国人と鉢合わせて、エクスキューズミーと言われて、イエスだのドントスピークイングリッシュだのと答えてしまうと「英語喋れるじゃん?」と間違った期待を抱かせてしまう感じである(´・ω・`)

 

私の対応として正しいのは、素のままで「はい。どうしました?」と応じることだと。そうすりゃ言葉通じないからその状況でどうすればいいか、と相手は考えざるを得ない。そこで言葉主体のコミュニケーションからボディランゲージや絵を介したコミュニケーションに切り替えてくれるかもしれない。

 

けれど、なまじ私が健常者のフリ、英語を話せるフリをしてしまうと、相手は自分に合わせてくれるものと思い込み、コミュニケーション手段を切り替えてはくれないだろう。

 

そういう風な失敗をしているような気がするわけである。「この人日本語喋れない人だわ」みたいな気づきを早々に相手に与えた方が良いだろう。「あぁ、この人話の通じない人だわ」でも何でも良いが、私がそういう障害があって意思疎通なりなんなりが微妙なのだ、ということをさっさと伝えておいた方が良いのである。

 

その結果、9割9分くらい私から去っていくのだとしても、残った人は、まぁそれでいいということなのだから。そうではなくて健常者のフリをして「ニホンゴハナセマスヨ。ダカラナカヨクシテネ」なんてことをやっていると、あぁ似非関西弁スピーカーだわこいつ、と見切られた時点でやはり去る人は去っていくのであり、その方が頑張った分だけダメージも大きいわけである。

 

そんな風に、出来る限り完璧に相手を騙し切る技術をコミュニケーション能力として鍛えたいという人がいて、そうすれば仲良くなれるんだ、という人がいるが私は懐疑的である。

 

 私が演技に疲れ果てるか、相手が私に違和感を見出して見切りをつけるか、なんてレースをしている気になる(´・ω・`)

 

なら疲れるだけだしなぁ…みたいな。

 

療育にしても、そういう英会話能力を高めるだけで、付け焼刃に過ぎず、だからそれじゃ友達も彼女もできないという現実やネイティブの中では差別されてしまうような状況から抜け出せないような現実を脱することはできないのかもしれない。

 

私は療育は受けていないのでその辺は未知数だが。

 

だから、療育を受けたから、SSTを熟したから、ライフハックしたから、普通の人の幸せが手に入るはずだ、と期待するなら、そんなわけは無い。その手のこの私では無い違う私になれるはず、というような目的意識を持って取り組むなら、それは挫折せざるを得ないように思える。

 

友達も彼女も結婚も普通の人にとって当たり前のあれやこれやは望むべくもない、という現実は何をしても手に入らないし変わらない。

 

その比較が間違っているのであり、全ては私なりの関係性にならざるを得ない。「普通の人用」の定規で、私の人生のあれこれを測ること自体がナンセンスである。

 

だから「不幸にしかならない」と言っているわけではない。この否定はマイナスではなくゼロだ。発達障害者には発達障害者の定規があるはずであり、それは一般的に明らかでは無い。結局は自分用の適当な定規を作らざるを得ないように思える。

 

ただ、それは誰しもがそうであろう。単に汎用性のある定規を自分はテンプレートとしてさえ使えない、みたいな話であって。誰しも自分の判断基準を自分で構築していくものなんじゃ無かろうか。

 

まぁ、健常者の中にはレールに乗ってるだけで特別難しいことを考えずとも適当に適当なその辺の定規で生きていける人もいるのかもしれないが…(´・ω・`)

 

 私は私という生物であるし、あの人はあの人という生物である。

 

そもそも私が人間である必要があるんだろうか( 一一)私が犬や猫として生まれて来ても、それはそれであるわけで、発達障害を持って生まれて来ても、それはそれに過ぎない。特に人間として生まれて来なければ間違いであるなどと言うルールはどこにも無いわけである。

 

けれど私たちは「まともな人間として生まれてくる」ことは当たり前だと考えている。正直、一匹の昆虫とかミジンコ辺りに生まれる可能性もあったのではなかろうか…( 一一)

 

少しばかり「まともな人間」から外れていたとして、それが何だというのだろう…。人間として生まれてくるルールとかそもそも無いのであってみんな偶然に過ぎないだろうに。私の頭がおかしいのもそういう珍しくも無い偶然である。

 

それこそ「まともな人間として誰しも五体満足で生まれてくる」という神話を当たり前に信仰し過ぎだろう…( 一一)

 

どこの誰が私の生まれにおける安定した品質なんてものを保証してくれたというのか…( 一一)自分の運命に期待し過ぎだろう。

 

空想してみるが、私が死んだら胡蝶の夢を再現するようなことも有り得ると思い、戦々恐々とする。無限に記憶リセットして生死を繰り返すんじゃないだろうか、と。だから生きるも死ぬも怖いのだと理解するが…。

 

ならば完璧に生まれないことなんて、何のことは無い。当たり前の現実に過ぎない。何に生まれようがそういうことはそういうものなのだろう。

 

まぁ、とは言え、無限に繰り返すとかやめて欲しいもんだけど。考えるだけでしんどいわ。