LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

本心を読んだ感想

平野啓一郎「本心」を読んだ。

 

自分にとっては結構、ストライクな主題を扱っていた。母が自由死をしたいといい出し、主人公はそれを止める。そのうちに事故で亡くなってしまう…。

 

やはり内面を描写するには小説という媒体が優れているな、と思った。20年後の日本で貧しい中、自由死という選択が出来る世界。

 

VRが発達したその世界に行ってみたいとも思った。セカンドライフなんて見窄らしいものではなく…。

 

私などは独り身でこの先付き合う女性などいないだろうから、全くの孤独であり、主人公には共感を覚える。彼は難しい状況から成長していく。そのさまが人生という濁流の中を流れて生きるような、そして、だからこそ人はその中で成長していこうともがき苦しむような…そして清濁併せ呑むようにして瀬戸際を生きているような感じがした。

 

イフィーではないが私もまた生殖能力を活かす機会など訪れず、不能である。コンプレックスをずっと抱えている。そしてそれは増え続けていく。大学の頃、外部から招かれた講師が「人間は醜いもの」と言っていたが、それだけは真実のように思える。

 

ある人間は初めから欠落を抱えている。そして、生きねばならない。言葉にならない気持ちというものがある。そして、それは解答を得られぬまま抱え込むしか無い。自身の生理に翻弄されて人は生きざるを得ない。

 

三好という女性に関しても同様であり、性的行為の醜悪さが、その身体に刻まれた記憶が彼女という人間を呪縛している。そしてその呪いから少しでも身を遠ざけようと縁起というような体験を求める。

 

私もまた涙活等をして感情の精算をしたくなることがある。その生理的な働きにより、人はある種のストレスを一時的に解消する。そういう風に川の流れのように留まることはなく人は変わり続ける。

 

私もまた家族のその他者性と向き合う必要がある人間の一人だ。五等分の花嫁の映画を見たが、まさに四葉が感じていたことは、相手の他者性、であると思った。五つ子であり、そのことの結束が自分たちを支えている、ということをシェアし共感せねばならないという思い込みと、そこから逃げ出したい私。私は私であり五つ子というセットでは無いのだという思い。それ故に、主題は、彼女たちの同質性ではなく彼女たちの他者性なのである。

 

結局のところ、他者である個性ある5人がそれでも同じ境遇により結束しあい結びついて生きていく。まぁ、主人公は相変わらずのキリトさんだったが…。最近は伊之助の方が好きである。猪突猛進して頂きたい。

 

まぁ、要するに、どんな人も異なる経験を経て育ってきた積み重なる過去を背負った個性なのであり、私たちはそこに土足で入り込めると思いがちだが、三好とのルームメイトという関係性、イフィーとのお世話係という関係性、母と誰とも知れぬ得体の知れない父から産まれた自分という拭いようのない異質さ…そうしたものを総合的に抱えて、人は心理的に…もう十分だ、と思うことは人生においてしばしば起こりうる事なのだと私は解釈した。