LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

もう4月か…心の雪は溶けないze…なぜなら永久凍土だから!

April Fools' Day

 

嫌いじゃない。ハロウィンみたいな。

 

再検査を受けたら、発達障害じゃなくて有機型アンドロイドでした。

人は生まれを選べず、有機型アンドロイドに生まれてくることもあるのです。私に心なんて無い。あるのは所詮プログラミングされたロジックだけ…。

 

人間を象った玩具…それが私。魂も心も無い。この自我は0と1だけで出来ているんだ…。心臓には自爆用の爆弾。股間には機関銃。乳首にはミサイル…。目からビーム。どうして気づかなかったんだろう。自分が何か他人と違うってことに…。

 

違和感。不器用な自分。コミュ障で空気が読めず、友達もできない。所詮、有機型アンドロイドか…。恋人も結婚も子供も諦めざるを得ないのだろうか…。アンドロイドは遺伝するから、残すべきじゃない。恋人ももっとちゃんとした人間と付き合うべきで…。

 

閑話休題

 

ある声優さんが言われたらしい。

 

「君は生きるのに必死過ぎる」

 

真面目を言い換えると「必死過ぎ」となる。発達障害者もひきこもりもニートも「生きるのに必死過ぎる」と思う(´・ω・`)無論、一部の話だが。

 

40歳の引きこもりニートが社会復帰して「社会経験が足りないから上手く行かない…orz」と言ってるのを見て、正直、足りないのは君の知能の方なんじゃないか…と思う。この手の人が実はアスペ君で「俺は障害者じゃない」と信じない・そういう考え自体が無い、という場合があるような気がする。

 

アスペで無くても「実は知的障害のボーダーだった」という話も聞く。そういう人が、ハンディキャップに気づかず、怠けたツケ、ニートのツケ、努力が足りなかったツケだと思い、自己責任と後悔して人生を送っている…なんてのは有り触れており、最早テンプレだと思う。

 

そこから人生を奮起させようと…普通の人間になろうと一旗揚げてやろうと一発逆転しようと努力するわけだが、彼は他人と競争していけるような普通の人間じゃないので「無駄な努力」である。

 

大体、ツケをチャラにするために、美味しい話に乗ったりだとか、常識では考えられないアクロバット飛行を敢行して物理法則に従って墜落するまでが様式美である。要はチートでどうにかしようとする。ISILとかはチートで人生どうにかしよう、みたいな連中というイメージ。

 

異世界転生の典型だが、生まれ変わっても彼が彼である故に「人間未満」であるため、100回彼のまま異世界にいったところで彼は勇者にはなれない。意気込んでいる彼には悪いが。

 

そういう実際にはあり得ないシンデレラストーリーを虚実の分からない人間に吹聴して夢と現実を混同させ無駄な希望を持たせる所業を私は残酷だな…と思う。

 

まぁ、結局のところ、生きるのに必死過ぎる人を見ているのは疲れるので、肩の力を抜けよ、と思うのである。発達障害者である私は必死に生きてきたわけだが、最近そこはかとなくやる気が無い(苦笑)真面目で責任感があって云々とは、必死で視野狭窄であることを意味する。可哀想なことだ。

 

学生の頃は奮起して「どげんかせんといかん」と思ったわけだが、その頃の私は『グレンラガン』みたいに地上に向かって一心不乱に掘り進んでいれば何時か地上に出られると思っていたのである。下手な鉄砲数撃ちゃ当たると思っており、当たるまでの損害については考えていなかったのである。目標に当たる前に数発撃った時点で取り押さえられるというのが現実である。

 

結果としてガスタンクとかを撃ち抜き爆死するわけである。何度かその手の「一念発起→視野狭窄→爆死」という様式美(スタイル)を決めた後、頑張っちゃダメだ、と私は悟った。なんか人生詰んでるし頑張る程に被害が拡大しているから「もうゴールしても良いよね…(byAIR)」という感じである。

 

かくして私は「頑張る」のを辞めた。頑張って株に手を出す引きこもりが居たりする。「人生諦めない」と言って。私は「蛍というのは儚い命であるな…」と思うのである。

 

周りは「本人がせっかくやる気になるのでさせてやろう」と言うのだが、大抵の場合、爆死の様式美に直行するのである。その様は水責めの拷問に掛かるのに似ている。水面に顔を出せば沈められ、の繰り返し。

 

 …閑話休題

 

 二次障害で鬱病を患っていると思しき私である。要するに気力が無い。すぐに疲れる。脳が回転しない。だから、私は頑張らない。鬱病はしかし頑張ろうとする。あれをやらなきゃこれをやらなきゃ…今期アニメ見なきゃ。しかし、すぐスタミナが切れるのであった。痛恨の1話切りである。

 

頑張らない、ということは、中々難しいのである。日常生活を送るくらいなら頑張らなくてもできる、とそこのあなたは思っているかもしれない。けれど、日常生活を送るのでさえ、頑張りが要求される。

 

鬱病というのはその程度の頑張りさえ頑張れなくなるという病気である。逆説的に言えば、私たちはその程度の生活を送るのにも頑張っているのだ。

 

発達障害者でよくあるのは、考え過ぎること。「思考の渦」と呼ぶ人がいたが、思念で頭の中が満員電車のようにギュウギュウ詰めになってしまう。それでアレコレと考えに圧倒されて疲れてしまうわけである。

 

心を無にしたい、という人がいるくらいに我々は「思考の渦」に困っている。逆に鬱病の私はやる気ゼロなので「思考の渦」など無いかもしれない。明鏡止水の境地である。要するに頭空っぽである。

 

やる気を出せば「思考の渦」に囚われ、体力を吸い取られ人生に疲れた…orzである。

 

 私は「頭空っぽ」で良いかな…と思う。問題は、こうしてブログを書いていても、直ぐに萎えることだが(苦笑)「思考の渦」に囚われている時には、次から次に書かなければと思うのだが、逆にそれが無いと呼び水も無い。原動力になる力が無いのだ。想像力の障害というが呼び水が無ければ思考を積み重ねることもできなくなる。

 

よく記憶を引き出しに喩えるが、発達障害者は引き出しの場所を覚えてないし、どの引き出しが今必要だ、みたいな考えすら中々思い浮かばない(´・ω・`)

 

地頭という考えがあるが、これは良くならないように思える。健常者が洗濯機を使って洗濯をしているなら、私は洗濯版を使って洗濯せねばならない('_')

 

みんながペンと紙を持っているのに、私は石筆と石板である。それがデフォなのに「みんなと同じ」になろうとするからダメなのである。自分は自分、他人は他人。私は洗濯版と石筆と石板しか持っていないのだから、それを使ってやりくりするしかない。今のところ(´・ω・`)

 

それを洗濯機持ってるとか、シャーペン持ってるとか、紙持ってる、とか見栄を張り偽るから、洗濯板と石板と石筆さえ使えないのである。

 

自分の頭も身体も所詮、道具。上手く生きたいのなら、道具の使い方に精通するしかないのではないか…。今自分が持っているものしか使えないのだ。