LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

日記

カクヨムで食肉をやめた世界の話を読んだ。『フォルカスの倫理的な死』というタイトルの短編で面白いので暇であれば読むと良いと思う。

 

この世界では動物を殺して肉にすることが倫理的に非難されて、肉が代替品に完全に取って代わった世界が舞台となる。

 

ネタバレになるが、結果として肉食獣を飼育することすら困難になり、その結果としてフォルカスを安楽死せざるを得なくなった、というものである。

 

その延長線上の行為として主人公は食肉を行うのだが、自分が求めたものはそこにはなかった、みたいなことを言う。

 

フォルカスは猫型ロボットとして復活するのだが、それはフォルカスだろうか?という点において、主人公は違和感を抱くのである。本人とクローンは同一人物だろうか?という感じの問答だろうか。であれば結果として本人とは言えない。コピーされたものはオリジナルのコピー以外の何物でもないのである。100%同じでもコピーはコピーでしかない。

 

また飼育されていた牛がどうなったのか…という点も結果を示唆している。

 

まぁ、確かに代替肉みたいのが買えて十分な品質なら私はそっちが良いかなと思う。最近は肉を食べると臭みが気になる、みたいなのがあるので。獣臭さというのは吐き気を催す。肉肉しい赤身や血液と思しき肉汁に対して私はかねてより苦手意識があった。

 

そういう苦手意識よりは、食肉のために行われている様々な屠殺のグロテスクな面に対する批判であるのだが…。人権を尊ぶ一方で動物に対する容赦ない商いをしているというのは矛盾を孕んでいる。

 

医療ドラマが毎年のように作られ、人命の尊さを語る一方で、人は家畜を飼い、屠殺し、素材を得て、それを利用している。また時にはマタギ等の専門業者が野生の動物を間引きすることもある。

 

海産資源はこれが減ったりする程に人は乱獲し続けているし、なんなら、それらの生食い、あるいは踊り食いということさえして喜々としている。実際に内面は推し量れないものの、体面上、喜んで食べねばならない、ようである。パフォーマンスとしては。

 

所謂、食レポ食レポ番組においては、そうした素材を褒めねばならぬ風潮がある。「新鮮さ」という言葉でそれが「血肉」であることを忘却しようとしている。ステーキを食べれば「ジューシー」で「肉汁」が溢れることが「美味しい」ということらしいし「レア」であることを絶賛する(タレントがレアのまま食べようとして店員にもう少し焼くように止められていた番組があったが…それは食レポの体質を示唆しているような気がする)。

 

そういう評価をしなければ職業としてやっていけない、という柵から、それが出来る人が生き残っていける、という世界なのであろう。視聴者はそれに共感しているかどうかはあまり重要ではないが、視聴率として稼げるならそれで良いというスタンスで、細かい倫理的問題にメスを入れ続けるような姿勢はなかなか見えてこない。

 

売れるから何でも売る。金になるから何でも売る。そういう素朴なあるいは軽薄な倫理観で行われる商いが横行している。結果として数字が出れば何でも良い。勝てば官軍である。という価値感が世界を支配せんとしている。転売やユーチューバー等はそういう側面が大きいような気がする。株式売買等もそうである。金になれば何でも良いという精神を持った人間がいくらもいる。

 

まぁ、それは「転売」というような行為にも見て取れるし、なんならコロナ禍で参拝に行くような精神にも見て取れるだろう。結局のところ、一部の人間は何らかの道徳観を持たないのだろう。

 

それがつまりは猫のフォルカスとロボットのフォルカスを同一視してこれで良いだろという恋人の価値感であり、結果として二人はきっぱりと別れるわけである。

 

生き物を生き物として認めて尊ぶという精神と、そこに介在する責任という問題は人間が共通して持つ道徳観ではない。それは性善説に過ぎないのかもしれない。サイコパスというような用語を引っ張り出さなくても、感傷の薄い人間は多くいるように思える。

 

そして、感傷を共有し得ない人間は価値感を共有出来ないために、別れざるを得ない。しかしながら、コロナにおいて見られるが如く、なかなかその境界線を引くことは難しい。

 

それが病院なら入ってくる患者を選ぶことが出来ないとか、である。結局、分かり会えない人間と場を共有せざるを得ないような場面が日常においてあるということなのだと思う。

 

結果としてコロナのような感染症がこれまで見えていなかった現状やリスクを明らかにした面は諸々あるであろうと思う。まぁ、つまりはエアロゾル感染ということであり、他人の飛沫を日常的に受けているんだなぁ…という感想であったりする。

 

老若男女限らず空気を共有しているがためにそこから菌が移ったりしていることがコロナによって可視化されているがために、潔癖症的に生理的に無理な感じを持つ人もいるんじゃないかなぁ、と思う。

 

そういう意味においてはマスクは自分から移さない。そして、相手から移されないための道具であり、コロナ後もマスク常用という人もいくらかいるんじゃないかなと自分は思う次第。